澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -402-
北京と香港市民の戦いは“文明の衝突”か?

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 周知の通り、今年(2019年)6月、香港では「逃亡犯条例」改正案をめぐり、大規模な改正案反対デモが起きた。香港政府がその改正案をなかなか撤回しなかったので、デモは過激化した(9月、同政府がようやく改正案を撤回)。更に、デモ隊による香港政府に対する要求がエスカレートした。「民主化」(1人1票の普通選挙)の要求を掲げたのである。
 (香港政府はともかく)中国政府としては、香港での普通選挙実施は許容できない。香港政府及び立法会で普通選挙が行われれば、必ずや「民主派」代表が行政長官となり、「民主派」が立法会で多数を獲得するだろう。
 すると、「1国2制度」下とはいえ、北京政府のコントロールが効かない状態に陥る。中国共産党はそれを1番恐れているのではないか。
 さて、北京政府は、依然、「近代」的価値観である自由・民主・人権を尊重していない。それどころか、習近平政権はそれらを毛嫌いしている。実際、「前近代」価値観である力(警察力・軍事力)による統治を行っている。他方、香港市民はすでに「近代化」し、自由・民主・人権を重視する。
 つまり、「前近代」のままの北京政府と(「1国2制度」下にあるとはいえ)「近代化」した香港市民との戦いは、まさに“文明の衝突”と言っても過言ではないだろう。
 19世紀、「アヘン戦争」及び「第2次アヘン戦争」の結果、英国は清国から香港島と九龍市街地を永久“割譲”された。
 その後、日清戦争後、英国は新界も清国から永久“割譲”されていれば、現在のような香港問題は起きていなかった。ところが、当時、他の西欧列強の厳しい目が光っていたので、英国は新界を割譲できず、“99年租借”したにとどまる。
 爾来、香港(香港島・九龍市街地・新界)は英国の主権下にあった。そのため、香港は好むと好まざると「近代化」の道を歩んだ。その過程で、香港人は、自由・民主主義・人権尊重等を学んだのである。
 このような香港人が簡単に中国政府の押し付ける「前近代」に戻れるだろうか。香港の“悲劇”は、「近代化」されたにもかかわらず、「前近代」へ引き戻される点にある。我々はそこを看過すべきではないだろう。
 乱暴な言い方かもしれないが、日本人が、今更、江戸時代に戻れないのと同じである。
 一方、中国は、清朝時代、西欧列強による完全な植民地支配は行われなかった。逆説的だが、これこそが、中国の“悲劇”である。
 植民地統治は、支配者が被支配者に対し、搾取・収奪を行っていたので、しばしば「悪」と捉えられる。確かに、植民地支配は“美化”されてはならない。だからと言って、必ずしも植民地統治がすべて悪かったかと言えば、必ずしもそうとは限らないだろう。
 例えば、インドは、長い間、英国からの過酷な支配を受けた。けれども、同国は、英国の統治を受けたがゆえに、大多数のインド人が「民主化」の重要性を理解したと考えられよう。したがって、第2次大戦後、インドが独立した暁に、同国は民主的制度を確立した。
 ところが、中国の場合、(我が国を含む)西欧列強が、単独ではなく、各国がバラバラに、中国の一部ずつを統治した。そのため、西欧列強の中国統治は、すべて中途半端に終わった。したがって、同国には「近代化」がほとんど根付かなかったのである。
 無論、それだけではないだろう。中国共産党は、「民主集中制」という美名の下、基層レベルしか選挙を行っていない(それらの選挙すら、共産党が選挙干渉している)。「民主集中制」とは聞こえが良いが、共産党“独裁”の単なる言い換えに過ぎない。真の民主主義とは程遠い。
 このような中国政府が、(香港返還前に作られた)『香港基本法』というミニ憲法を無視して、香港政府に「緊急状況規則条例」(「緊急法」)を発動させた。これは、事実上の“戒厳令”である。香港行政長官が立法会の承認を得ずして、どんな法律も発布できる(第2次大戦後、英国は「緊急法」を3度発動した。だが、香港返還後は、初めてである。今回、違憲の可能性が大きい)。
 その手始めが「覆面禁止法」だった。マスクを着用して、街を歩いてはならないという法律である。違反者は、2万5千香港ドル(約34万円)以下の罰金や1年以下の禁固刑に処せられる。
 それに対し、香港人、特に香港の若者は、死を賭して抗議デモに参加している。我々も彼らの覚悟を見習うべきかもしれない。
 最後に、「覆面禁止法」が施行される直前の10月4日、デモ隊が各地で民主的な「香港臨時政府」樹立を宣言した事を付しておこう。果たして、今後、「臨時政府」が機能するようになるかどうか見守りたい。