「日本と中韓の『儒教』精神の大きな違い」
―「公」「君」を尊ぶ日本、「私」を最高の価値とする中韓―

.

会長・政治評論家 屋山太郎

 米中貿易戦争は、まだ始まったばかりだが、中国の劣勢、国力の弱体化が既に明らかになりつつある。しかしここで中華人民共和国が没したとしても、またまた同じ体質の国が勃興することは間違いない。中国大陸という大地で5族がこの2千年の間に繰り返し同様の国を作り出してきた。中国には永久普遍のエネルギーがある。
 中国、韓国はともに儒教国家である。日本も儒教が社会の隅々まで染みわたっているが、日本の儒教と中韓の儒教とは決定的に違う点がある。日本の儒教で最高に尊ばれているのは「公」「君」であり、公のためなら「私」を捨てることも厭わない。残念なことだが、戦争中、特攻隊が結成されたのも精神の根っこに儒教精神があったからだろう。切腹などという刑罰が最近まで存在していたのも、死刑がいまだに廃止にならないのも、ここを動かすと儒教の公を尊ぶ精神に触れてしまうからだろう。
 これに比べて中韓の儒教には「公」という観点がなく、最高の価値が「私」である。「私」のためなら何をやってもいいという価値観が2千年以上も続いている。日本では儒教を学ぶ人が多く、昔は高校、大学で最重要の学科とされた。教養人は色紙に漢文を書くのが常識だった。しかし日本の儒教と中韓の儒教と全く違うことは教えられていない。
 中国では5年おきに共産党大会が行われ、そこで犯罪者数を発表するのが常だ。5年ごとに汚職で捕まる“公務員”が15万人ほどいることが報告される。公的企業や組織の肝心の部署に共産党員を配置することになっているから“泥棒”の大半は公務員だろう。
 習近平主席は「トラもハエも叩く」と豪語しているが、泥棒が年に何万人も排出されることをおかしいと思わないのか。共産党の幹部級が汚職で捕まったという。公金をくすねた額を調べてみれば、なんと1兆6000億円だという。泥棒がお金の隠し場所を白状しない時点で、当局は犯人を逮捕できない。死刑を宣告されているのに「執行猶予」とは何故かと思っていたが、盗品を隠しているが故に命永らえている訳だ。
 儒教は「私」が最高の価値だから一族の誰かが偉くなると全員に恩恵を施す。役職に就けてやる、公金を配るなど、やりたい放題だ。
 中国は7世紀に官吏登用のために「科挙」の制度を創設した。後年、朝鮮も同制度を真似たが、科挙は月給や住居など自らの処遇は全て科挙自身が決めたという。“公務員”の横着が改まらないのは、科挙であれ共産党であれ、権力の中枢を握っているからだ。
 最近、新疆ウイグル自治区のウイグル人の思想改造をしている。キリスト教も地下教会が禁じられた。他の宗教も中国化を行い、穏便な教に変える本心だという。
 誰が宗教の良し悪しを判断するのか。イスラム世界で争っている元は宗派の違いである。中国共産党はどこを修正しようというのか。
(平成31年1月30日付静岡新聞『論壇』より転載)