澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -355-
毛沢東秘書、李鋭の死

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 今年(2019年)2月16日、毛沢東の秘書を務めた李鋭が永眠した。肺炎と消化管癌のため、多臓器不全で亡くなっている。享年満101歳だった。
 最近、李鋭が脚光を浴びたのは、「習近平主席の教育レベルは小学生並み」と直言したからではないか。高齢の李鋭は北京の病院に入っていたが、インタビューで、そう答えている。
 実は、李鋭は、習主席の父親、習仲勲と親しかった。そこで、李鋭は習主席が浙江省のトップだった時代に会っている。その際、李鋭は上記のように感じたという。
 習近平主席の学歴を詳細に見る限り、李鋭の言っている事が分からないでもない。
 習主席は若い頃、陝西省延安市へ「下放」(都市に住む知識人の若者が農村へ行って働かされた)されている。
 「文化大革命」(1966年~76年。以下、「文革」)中には、大学入試は、ちゃんと行われていなかった。確かに、習近平主席は、1975年、名門、清華大学化学工学科に入学している。但し、推薦入学だった。
 1977年から全国大学統一入試が再開され、北京大学や清華大学は「文革」以前と同じ、難関校へと回帰している(因みに、1977年、北京大学に入学した李克強首相は、その難しい試験で合格した)。
 つまり、習主席は、高校時代、しっかり受験勉強して難関校に合格した訳ではない。大学卒業後、習主席は実務に就いてから、大学院へ通って博士号を取得した事になっている。
 しかし、忙しい合間をぬって、福建省や浙江省から北京の清華大学へ通い、マスター・ドクターの学位を取得するのは、常識的に考えてあり得ない。
 だから、李鋭が習主席の学力を小学生レベルと言ったとしても、決して不思議ではないだろう。
 さて、李鋭の娘、李南央(李鋭と前妻、範元甄との間の子供。米国サンフランシスコ在住)は父親の「遺言」を公表していた。
 その内容とは、(1)李鋭の葬儀は行わない(2)李鋭の棺を党旗で覆わない(3)李鋭の遺体を八宝山へ埋葬しない――という3点だった。
 八宝山とは、北京市八宝山革命公墓の事で、中華人民共和国建国後、各界で活躍した人物(特に共産党の元老達)を埋葬している。
 ところが、2月20日、中国共産党は、李鋭の棺に党旗を覆い、八宝山に埋葬した。結局、李南央は帰国して、父親の葬儀に参列することはなかった。そして、李南央は、父に対する最大の侮辱は、遺体を党旗で覆った事だと非難している。
 しかし、一方、李鋭の後妻(李南央の継母)、張玉珍は、李南央の公表した夫の「遺言」自体を否定した。そのため、前妻の娘と後妻が完全に対立している。
 李南央は、2008年と昨春、父親に対し、もし亡くなったら、どこに埋葬されたいのか尋ねたそうである。その際、李鋭は故郷の湖南省平江県へ帰る事を望んでいたという。
 元来、李鋭は同省の裕福な家庭出身である(父親は、孫文が創立した中国同盟会のメンバーだったという)。李鋭は、1937年、武漢大学生(機械工学部)の時、中国共産党に入党した。その後、1958年、李鋭は最年少で水利部副部長(副大臣)兼毛沢東秘書に抜擢されている。
 しかし、1959年、李鋭は彭徳懐と共に、毛沢東の「大躍進」運動を厳しく批判した。そのため、翌年、李鋭は、党籍を剥奪されている。その後、李鋭はソ連国境の強制収容所に入れられ、飢餓で危うく命を落とすところだった。だが、友人に救われている。また、「文革」時、李鋭は、9年間近く(1967年11月~1975年5月まで)、秦城刑務所に入れられていた。
 毛沢東死後、李鋭の名誉は回復され、1979年、水利電力部副部長(副大臣)へ返り咲いた。その後、中央組織部常務副部長、青年幹部局局長等を歴任したのである。他方、李鋭は、党内きっての歴史家だった。
 李南央によれば、父は赤が嫌いで「すべてが赤」というのは良くないと語っていたという。李鋭は、習近平主席が任期(10年)を撤廃し、事実上の“終身主席”となったのを批判していた。李鋭の「中国の夢」とは、憲法に従った統治を行うことだったのである。
 このように、中国共産党内にも、胡耀邦や趙紫陽、それに李鋭のような進歩的「改革派」がいた。ところが、彼らのような自由主義・民主主義を重視する「改革派」が党内で多数を占める事ができない。
 逆に、毛沢東や習主席のような「保守派」(「近代」的な西欧的価値観を否定し「前近代」的な中国的価値観に固執)が党内で多数派を形成する。これこそが「中国の悲劇」だろう。