澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -186-
北京での退役軍人と現役警察官の抗議デモ

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 昨2016年10月11日から12日にかけて、中国全土から退役軍人約1万5000人が北京の長安街に建つ中央軍事委員会ビルを取り囲んだ(数百人説、数千人説など諸説ある)。
 リストラで転職を余儀なくされた元軍人ら(目下、約600万人いると言われる)が、自らの生活を保障するよう習近平政権に抗議(陳情)したのである。
 迷彩服を着た退役軍人らは、習近平中央軍事委員会主席や同委員会副主席に直接、彼らの実情を知ってもらいたかったという。
 元軍人らは、整然と並んで国旗を掲げ、国歌を合唱した。道路を挟んで警備していた公安も、静かに見守っていた。
 実は、2011年、中国国務院(内閣)による「退役兵士安置条例」が施行された。けれども、実態は、軍人が退役した後、次の仕事が見つからなかったり、退役後の生活保障が十分ではなかったりした。
 そこで、昨16年の全国人民代表大会では、退役軍人に対する国家支出を13%アップし、398億元(約6000億円)に増やした。それでも、彼らによる陳情が起きたのである。
 北京政府(現在「太子党」系)は、元軍人によるデモに肝を冷やしたのではないか。因みに、このデモは江沢民系の「上海閥」に組織された可能性も排除できない。
 現在、人民解放軍には、230万人が所属する。習近平政権下、今年(2017年)末までには、更に30万人のリストラが行われる予定となっている。はたして、無事、軍の簡素化ができるかどうか微妙な情勢である。
 一方、昨16年11月28日、今度は、北京市公安局に所属する4000人以上の現役警察官が、天安門広場の東側に位置する北京市公安局ビル前に集まった。
 彼らは、北京市公安局長の王小洪(習近平主席の腹心。国家公安部副部長および北京市副市長を兼任)に対し不満を抱き、抗議デモを決行した。現役の警察官らが、集団辞職願を提出するとは尋常ではない。
 今回の集団的辞職デモの直接的契機となったのは、昨16年5月7日、北京で起きた「雷洋事件」だと言われる。
 この事件では、仲間の警官が殺人容疑で起訴される寸前だった。そこで、おそらく江沢民系の「上海閥」に組織された現役警察官らが北京公安局(及び、その上の中国共産党最高幹部=習近平主席)に圧力をかけるため、デモを行った公算が高い。
 「雷洋事件」の概要は以下の通りである。
 共産党員だった雷洋(29歳)は、中国人民大学修士課程を修了した。そして、中国循環経済協会(国務院国有資産監督管理委員会に所属する)に勤務していた。雷洋は、妻と生まれて間もない一人娘と共に3人で北京市郊外の昌平区に住んでいたのである。
 昨16年5月7日は、雷洋と妻の結婚3周年の記念日だった。事件当日、雷洋は20時30分頃、北京首都空港で知り合いを出迎えた。その後、北京にある「足マッサージ店」(裏では売春を行っていた)へ行ったという。
 10分後の20時40分頃から、昌平東小口派出所の邢永瑞・副所長と4人の補助警官(本当の警官の権限はなく、正式な警官の管理下で働く)が、その店先付近で張り込んでいた。
 21時14分、雷洋が足マッサージ店から出て来たところを買春容疑で逮捕された。逮捕の過程で、雷洋は逃げようとして暴れている。
 だが、邢永瑞・副所長らは雷洋の身柄を拘束し、黒い車両の中へ雷洋を押し込めた。間もなく、正式な身分の警察官がやって来て、雷洋をその黒い車両からパトカーに乗せて派出所へ連行した。
 この前後に、雷洋は警察官や補助警官から暴行を受けたと考えられる。
 22時09分、雷洋は突発的な心臓病を発症し、昌平区の中西医療結合病院へ運ばれた。だが、その時、既に雷洋は死亡していたのである。
 後に、警察当局が監視カメラの映像を検証した結果、やはり雷洋は21時04分、足マッサージ店付近へ来ていた。ただ、その10分後に逮捕されている。
 常識的に考えて、雷洋が同店で買春をしたと決めつけるのは、明らかに無理があるだろう。他方、公安当局は死んだ雷洋の死体からわざわざ精液を取り出している。当局が事件を“でっち上げた”可能性も捨て切れない。
 事件後、遺族や雷洋の母校、中国人民大学の同窓生らが、「雷洋事件」の真相究明を当局に求めるため署名を集めた。
 ところが、公安当局はこの事件を揉み消そうとし、遺族へ2000万元(約3億円。一説には4000万元)を支払い、うやむやにしようとした。
 同時に、当局は、遺族や人民大学の関係者に圧力をかけ、人民法院(裁判所)への訴えを取り止めさせた。
 同年12月23日、北京検察は雷洋に暴行したとされる警察官ら5人を不起訴とした。11月28日、警察官らの集団辞職願デモが奏功したのである。この措置に、ネット上では、北京市公安当局に対し非難が集中した。
 結局、「雷洋事件」が、「太子党」と「上海閥」間での“政争の具”となってしまった感がある。