北朝鮮がVX剤を使って実行した殺害の謎

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政策提言委員・軍事アナリスト 西村金一

はじめに
 2月13日、マレーシアクアラルンプールでの金正男氏殺害は、なんとも不可解で疑問が多い事件だ。化学剤のVX剤が使用されたと判明したことで、一つ一つ解明されてきてはいるものの、未だ謎が多い。北朝鮮から見れば、北朝鮮籍の殺害者集団は、本国に帰国し、帰国できなかった者は大使館に籠城している。北朝鮮籍の者が逮捕されない限り、結果的に「北朝鮮が実行した」と、断定することは難しい。
 今回の殺害では、その殺害の謎や誤解を分析して解明していくのが重要である。そこで、まず、①化学剤を使った殺害の謎、②北朝鮮が実行したと分かっていても特定できない謎について、3月4日までの情報に基づき分析したことを紹介したい。  

1.化学剤を使った殺害の謎
(1)化学剤の恐ろしさを知ったうえでの殺害なのか
 一般的に、毒物は服や皮膚に付くと、洗い流すことができる。一方、化学剤は、戦場で兵士を殺傷するために研究し製造されたものだ。だから毒物と異なり、皮膚に触れただけで、その剤は体内にすばやく浸透し人を殺傷する。一旦、服や皮膚に付けば、水で洗い流すことはできない。服に付けば、皮膚に触れないようにして脱いで捨てるしかない。一旦服に付けば、身体に付いているものとして、その服は、処分したほうがよい。
 化学剤の神経剤は2つに区分でき、G剤(サリンなど)とV剤(VXなど)があり、サリンは液体からすぐに気化して広がり、周辺の人を死亡させる。VXは、粘り気のある液体のままなので、付けられた者だけが死亡する。びらん剤のマスタードは、付くと皮膚が爛れるが、気化したものが肺に入って肺を壊す。だが、死ぬことはない。
化学剤の専門家が、当初からVX剤が使用されたと推定できたのも、これが理由だ。

(2)ベトナム人女性容疑者が本当にVX剤を付けたのか
 インドネシア人のアイシャ容疑者やベトナム人のフォン容疑者については、パスポートどおりの国籍なのか。逮捕されている2人は、パスポート通りの人物で、「日本のテレビ局に頼まれた」だけと、現在でもそのように信じているようだ。実際に予行を行い、実際にドッキリをやっていたのかもしれない。
 VX剤を素手に付けて、相手に擦り付ければ、殺害者自身も死亡するほどの大きな被害を受けているものと思われる。だが、逮捕された容疑者は、2日後に空港に再び現れ、警備員に笑顔を振りまいていたそうである。
 2種類の剤を混ぜて化学剤にするバイナリ―兵器であったとしても、2剤を混ぜて擦っている時に、容疑者も大きな被害を受けたはずだ。2日後に笑顔で空港に現れたことで、被害を受けてはいない。
 彼女らが本当に化学剤を正男氏に付けたのか疑問が多い。空港の防犯カメラに写っている「LOLの白シャツ」を着た人物と逮捕されたフォン容疑者の写真を比較して見ると、鍛えた身体なのかそうでないのか、骨格の様子、顔の形、胸の大きさが異なっている。これらのことから、LOLの白シャツの女とフォン容疑者とは、別人である可能性が高い。

2.北朝鮮が実行したとわかっていても特定できない謎
 外国人女性2人と北朝鮮の偵察総局や国家保衛省が実行部隊で、大使館書記官、高麗航空社員などが支援部隊だとする確度の高い情報が出てきた。おそらく携帯電話の解析と空港などの画像との照合などにより解明されたのであろう。偵察総局隷下の偵察局、35号室、作戦部が直接実行し、国家保衛省も加わったとみられる。国家保衛省は、国外で殺害する任務はないが、今回、正男氏の顔認識や女性2人を騙して使うための工作に動いた可能性が高い。 
 このような証拠があっても、北朝鮮はこの事件を隠蔽しようとし、また、韓国の陰謀だと発言している。時系列に列挙して紹介すると、

・事件発生から数日間、北朝鮮大使館は、すぐに現地当局に遺体の引き渡しと、解剖は必要ないとして火葬を要求した。
・10日ほど過ぎて、北朝鮮国営メディアは、正男氏殺害事件を北朝鮮公民の突然死として初めて報じ、北朝鮮が関与したとの見立ては韓国の「陰謀」だと主張した。また、マレーシアの秘密警察が介入したと強調した。
・2週間ほどすると、ジュネーブ軍縮会議で、北朝鮮政府代表部は、「(北朝鮮は)決して化学剤を保有、使用していない」と述べた。
・3月1日、北朝鮮国営メディアは、正男氏殺害事件について、「米国と韓国当局は『猛毒の神経剤VX』による毒殺だと主張し、我々に対し、根拠なく言い掛かりをつけている。荒唐無稽な詭弁だ」と非難した。
 
 北朝鮮は、「証拠を隠蔽」することと、「罪を韓国の陰謀」と言い逃れすることを、今回の事件に限らず行ってきた。過去にも、いくら証拠を突きつけられても「韓国の陰謀」と主張し続けてきた。
 1983年のラングーン爆破テロ事件では、北朝鮮は、韓国が北朝鮮を陥れるために起こした自作自演の事件であると主張した。
 1987年の大韓航空機爆破事件では、事件への関与を否定している。だが、2010年の報道によると、6ヵ国協議の席上で北朝鮮の李局長が、「大韓航空機爆破事件以降、一度もテロを起こしたことがない」と口を滑らせ、事件への関与を認めてしまったこともあった。
 2010年韓国海軍軍艦が真っ二つに割れて沈没した。韓国は数々の証拠をあげて北朝鮮の魚雷攻撃によるものだと主張したが、北朝鮮は、李明博政権による「陰謀」「でっち上げ」と否定した。
 いつものこととは言え、よくもこんな嘘を言い続けられるものだと呆れるばかりだ。
 
おわりに
 北朝鮮による金正男氏殺害は、殺害を達成したにも拘らず、北朝鮮がやったといった証拠は少ない。北朝鮮にとっては、戦術的に見れば成功に近かった。だが、戦略的に見ればどうなのか。他国の玄関口で、残酷非道な化学剤を使用して殺害したことは、証拠は少なくても、誰でもが北朝鮮がやったこと、北朝鮮以外にこのようなことを実行することはあり得ない、と思ったことだろう。これから、北朝鮮が孤立していくのは目に見えている。体制を安定させるために実行した殺害が、金正恩体制を大きく揺れ動かす事態に発展することになろう。