澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -209-
鄧小平の“党政分離”論を否定した王岐山

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 習近平政権下では、常識では考えられないような不可思議な事が次々と起こる。
 最近では、最高人民法院長(最高裁裁判長)の周強が、自ら“司法の独立”を否定した。中国で裁判所の存在意義が完全に失われた瞬間だった。
 もともと、共産党政権下の中国では裁判官ではなく、党が判決を下していた。今後、それに一層拍車がかかるのではないか。
 今年(2017年)3月5日、今度は、習近平主席の側近中の側近、王岐山(中央紀律<規律>検査委員会書記)が、かつて鄧小平が唱えた“党政分離”論を真っ向から否定した。
 普通、民主主義国家ならば、政府と政権与党が渾然一体となっている事はない。基本的に、政府と執権党は別組織である。
 だが、王岐山は「党の指導の下、ただ“党政分業”はあっても、“党政分離”はない」と主張した。王は「文革」に異議を唱えた鄧小平理論を明確に否定した。つまり論理的に、王は「文革」を肯定した事になる。
 現在、習近平政権は「文化小革命」ないしは「第2文革」を推進している。だから、王岐山はそれに合わせて、“党政分業”(=“党政一体”)論を展開しているのではないか。
 この王発言は習主席の直接的意向を受けたか、或いは習主席の気持ちを忖度して述べたのか不明である。
 1977年に再復活した鄧小平は、「文化大革命」(以下「文革」)は党と政府が一体化し、権力が毛沢東主席に集中したために起きたと結論づけた。
 そこで鄧小平は、1986年“党政分離”を唱え、中国の政治改革を目指した。
 鄧は、「犯罪撲滅等は、法律の範囲内の問題である。法で解決すべきで、共産党が直接関わるのは不適切だ。法律の範囲内の問題は、政府の所管である」と考えた。また、「共産党の関与が多いと、人々の法概念涵養への障害となる」とも考えた。
 鄧小平は「文革」で辛酸を舐めた1人である。鄧自身は、江西省南昌市へ流された。盟友の劉少奇は「文革」の最中、命を落としている。また、鄧小平の長男、鄧樸方は、紅衛兵によって北京大学の4階から転落し、下半身不随となった。
 当時、「改革派」の胡耀邦(鄧小平の片腕)が総書記だった。そして、中国に政治改革の気運が高まっていた。
 けれども、胡耀邦が学生による「民主化運動」に共感したため、「保守派」に攻撃され、翌87年1月に失脚した。その際、同じく「改革派」の趙紫陽(やはり鄧小平の片腕)が胡耀邦の後を継いだ。
 周知のように、1989年4月、胡耀邦の死を契機に中国では激しい「民主化運動」が展開された。間もなく「6・4天安門事件」が起こり、趙紫陽は失脚し、中国の政治改革は完全に頓挫している。
 その後、江沢民政権と胡錦濤政権を経て、2012年秋から翌13年春にかけ、習近平政権が誕生した。爾来、共産党は「左傾化」(=「保守化」)したのである。
 実は、王岐山は「文革」の際、陝西省延安市へ「下放」された。その後、当地で姚依林(元第1副首相)の娘、姚明珊と出会い結婚する。
 義父、姚依林は、鄧小平とは一線を画す「保守派」だった。だから、その娘婿の王岐山が、「左派」(=「保守派」)であることは自然である。それよりも、「改革派」の胡耀邦と親しかった習仲勲の息子、習近平主席が「左派」である方がよほど奇妙かもしれない。
 ところで、中国共産党の兄弟党である国民党も、大陸時代からの「党国体制」(“党政一体”)を採っていた。国民党は「国共内戦」に敗れ、台湾へ敗走した後も、島内でずっと「党国体制」を敷いていたのである。
 しかし、内部からの「民主化」要求と米国からの圧力によって、台湾は徐々に「民主化」が進んだ。それに伴い、ようやく国民党の「党国体制」が崩れ、“党政分離”が実現していく。
 目下、世界中の多くの国々が「民主化」を志向している(但し、イスラム世界は若干事情が異なる)。けれども、中国共産党政権は、「民主化」の道に敢然と背を向け、“歴史の歯車”を逆転させている観がある。
 常識的には、このような「前近代」的政権が長く続くとは考えにくい。近い将来、景気の悪化から、深刻な内戦、或いは「易姓革命」が起きても何ら不思議はないだろう。