日報への誤認識と説明不足が生んだ空騒ぎ
―相も変らぬステレオタイプな虚像にはしるメディア―

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政策提言委員・元航空支援集団司令官 織田邦男

 「日報」問題で防衛省が揺れている。「疑惑ぬぐえず」「文民統制は機能しているのか」「隠蔽体質」「陸自の反乱」等々、メディアは相変わらずセンセーショナルに書きたてる。「森友」問題や「加計」問題と共通しているのは、最も重要な本質的議論が抜け落ち、枝葉末節が肥大化していることである。加えて「日報」についての誤認識が重なり、騒動が拡大しているようだ。
 事の発端は、南スーダンの国連平和維持活動(UNMISS)に派遣された陸上自衛隊が日々活動報告を司令官に上げる「日報」の文言である。
 自衛隊の国連平和維持活動への参加については、紛争当事者間で停戦合意なされていることが大前提である。陸自が派遣されていた南スーダンについては、近年、政府軍と反政府勢力の衝突が相次ぎ、停戦合意はすでに崩れているのではないかとの指摘があった。稲田朋美防衛大臣は、派遣継続の正当性を主張するため、日報にある「戦闘」の文言は避け、「武力衝突」と言い換えて国会で答弁した。
 この日報が情報開示請求されたが、防衛省は既に廃棄されたとして開示しなかった。その後、他の部署に残っていたことが判明したが、「今更あったとは言えない」として公開しないことにしたという。この時点で、稲田防衛大臣はその報告を受けていたのではないか。もしそうであれば、「(あったことを)報告を受けていない」との国会答弁は虚偽となる。大臣を含んだ組織的な隠蔽ではないかというのがこれまでの騒動の顛末である。
 そこには、南スーダンから撤収に至った状況判断、あるいは今後の国連平和維持活動に対する日本の姿勢は、PKO5原則はこのままでいいのか、といった本質的な議論は全くない。
 国連平和維持活動は「停戦監視、兵力の引き離し」といった伝統的な「第一世代の平和維持活動」から、現在は内戦型紛争に対する「第二世代の平和維持活動」に移行している。破綻国家(failed states)、あるいは民族差別、宗教対立、そして貧困などが原因となる虐殺、民族浄化が多発しており、人権侵害防止のため、難民支援、武装解除、社会復帰といった支援活動のみならず、住民保護や文民保護のため、武器の使用を含めた積極的関与が基本的方向性となりつつある。
 スポイラー(和平の妨害者)に対しては、中立性は不要というのが今の国連の方針であり、力の行使のための交戦規定(ROE)の明確化や国連部隊の自衛力の向上が求められている。この他、紛争再発防止のための信頼できる抑止力提供など平和協力活動はリアリズムが導入された「第三世代の平和維持活動」に移行しつつある。
 このように平和協力活動自体が大きく変容しつつある今日、日本だけが、「武力衝突」か「戦闘」かといった「言葉遊び」をしなければならないような「PKO参加5原則」にしがみついて今後の国際平和協力活動に参加できるのか、できないとしたら日本は今後「第三世代の平和協力活動」には一切参加しないのか、あるいは「5原則」は変えてでも参加するのか、といった核心的な議論はスッポリ抜け落ち、日報の「隠蔽」有無といった極めて矮小化された議論に終始している。
 そもそも「日報」についての誤認識が今回の騒動に拍車をかけている面は否めない。筆者はイラク派遣航空部隊指揮官を2年8か月務め、日報を受ける立場にあった。もう8年以上も前のことになるので、当時とは違うかもしれない。また今回、防衛省で何が起こったのか知る立場にないので、現実とは齟齬しているかもしれない。こういう前提であえて述べる。
 日報の目的は2つある。一つは指揮官の指揮を適切にすることであり、もう一つは教訓を読み取り、今後の参考にするためである。このため、日報には日々の運用(作戦)に関すること、つまり天候や情勢、そして隊員の状況(特に健康状況)、任務実施内容(成果)、運用に影響を与える問題点などが報告される。
 指揮官は日報から現場状況を掌握し、指揮官として処置すべき事項、次なる運用などの構想を練る。そして権限を越えることについては上級指揮官たる統合幕僚長に報告し指示を待つ。
 当然、指揮官として処置すべき事項、次なる運用のための指示などは、司令部組織をあげて検討することになる。そのため、幕僚は日報の内容を情報として共有しておかねばならない。通常、幕僚は自分のパソコンなどにデータとして保管し、いつでも見られるようにしている。個々の幕僚がパソコンに保有する日報は、この時点で個人の幕僚データとなり、公文書ではなくなる。
 現場から送られてくる文書自体は公文書であり、文書管理規則に従って保存期間が決められており、その期間が来れば廃棄される。だが、幕僚が自分のパソコンに保有するデータは公文書でも何でもなく、個人の資料に過ぎない。従って、公文書たる日報は、今回のように規則に従って廃棄されたとしても、個人のパソコンには同じ文書が残っている可能性は十分に考えられる。
 情報公開が請求できる文書は公文書である。個人のパソコンにある資料は、ただの私的資料であり、その対象とはなりえない。まさにどういう資料を持っているかどうかは幕僚個人の勝手であり、まさにプライバシーそのものである。
 今回、廃棄したとされる日報が残っていたというのは、幕僚が自分のパソコンに個人の資料として持っていたものではないのかと推察する。(知り得る立場にないので細部は分からない)もしそうであれば、それは「隠蔽」でも何でもない。「隠蔽疑惑」は防衛省の説明不足によって生じた誤解に過ぎない可能性が高い。
 日報のもう一つの目的は教訓の取りまとめである。活動終了後、直ちに教訓が取りまとめられ、次なる活動の参考にされる。実戦における「戦闘詳報」と同じであり、次の作戦を立案する時に欠かせない重要な資料である。このため研究本部や幹部学校など教訓を取りまとめる部署にも日報は当然共有される。これをデータとして共有し、加工蓄積したものを分析することによって教訓を引き出す作業をするわけだ。
 公文書としての日報は廃棄されたとしても、幕僚の個人資料と同様、研究本部や幹部学校など教訓を引き出す部署にはデータとしての日報が残っていることは十分にありうる。公文書は、廃棄されるとしても、教訓を生み出すためのデータや資料は、次なる活動の参考にするために廃棄することは普通あり得ない。だからといって、「残っていたのに隠蔽した」とはならない。残っているデータや資料は既に公文書としての日報ではないからだ。もちろん情報請求の対象とはならない。
 今回の騒動の結果、懸念されることがある。今後は個人のパソコンまで管理や規制が及ぶようになる可能性があることだ。そうなれば、大変な業務の障害になるであろうことは容易に想像できる。羹に懲りて膾を吹き将来に禍根を残さぬようにしてもらいたい。
 その他、今回の騒動で注意しなければならないことに、「言葉狩り」の前例を作らぬようにすることがある。日報を実際に書く担当者は通常、現場の2佐や3佐である。彼らには必ずしも政治状況が完璧に把握できているとは限らない。「戦闘」と書けばPKO5原則に抵触するから、「武力衝突」と書くべきだなどということに考えが及ばないのが普通だ。現場の忙しい中で、いちいち六法全書を片手に、政治を忖度しながら日報を書くようなことを現場に要求してはならない。
 そこまで現場に求めると、現場部隊は委縮し、事なかれ主義に走り、微妙な事象については報告を上げて来なくなる可能性がある。そうなれば指揮官に実情が伝わらなくなり、指揮官の指揮を誤らせることにもなりかねない。最もあってはならないことだ。
 日報は指揮官にとって極めて重要な情報源である。現場の担当者が軽易にありのまま、分かりやすく書けるようにしてやらなければならない。それから実情を読み取るのは指揮官の力量である。日報は政治の論争に使うべきものではないし、現場部隊を政争の具にしてはならないのだ。
 今回の騒動を見ていると、「加計問題」と同じような気がする。もともと問題がないところにメディアが無理やり騒ぎを起こし、本質的議論を避け枝葉末節の空騒ぎに終始する点だ。それに防衛省の説明不足が手伝って、「隠蔽」「陸自の独走」といったマスコミ受けするステレオタイプな虚像が自己増殖してしまった。これが今回の空騒ぎの現実なのではな>いだろうか。メディアも防衛省も冷静になって猛省すべきだろう。
(平成29年7月24日付、JBpressより転載)