澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -302-
当局に少し反抗しただけでも重罪となる香港

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 1997年7月1日、香港がイギリスから中国へ返還されてまもなく21年が経とうしている。中国共産党は、「50年間、香港の体制は不変」だと宣言した。だが、その“国際公約”が遵守される事はなかったのである。
 一昨年(2016年)春節の初め(2月8日~9日)、香港旺角では、警察が違法に商いをする“伝統的”露天商を一斉に取り締まろうとした。それに対し、一部の市民が露店商を支援して警察と衝突した。彼らは、警察に道路の石や瓦を投げつけたり、火を放ったりしている。
 その中に、「本土民主前線」の幹部(当時)、梁天琦(1991年、湖北省武漢市生まれ)がいた。梁は香港大学大学院で、哲学や政治・公共行政を学んだ。そして、香港こそが“我が祖国”と考える「本土派」である。以前から我々が主張しているように、SNSと共に育った若者達は、自分の故郷が“我が祖国”と考える傾向が強い。梁も例外ではなかった。
 事件後、少なくとも91人が逮捕され、その中で31人が「暴動罪」容疑をかけられた。そして、10人が高等法院(高裁)で審理されている。
 今年(2018年)6月11日、当時、「暴動」の首謀者の1人とされた梁天琦が、「暴動罪」で懲役6年の判決を受けた(同事件では盧建民が懲役7年を言い渡され、最長となる)。だが、梁に対する判決が重いのではないかと見る人も少なくない。
 最近、有名評論家である林保華が『民報』に「香港本土派リーダー、梁天琦の重刑判決に関する様々な見方」という一文を書いているので、紹介したい。
 林保華は、2016年の「暴動」と約50年前、中国大陸での「文化大革命」時に香港で起きた「67暴動」(1967年5月から12月まで)と比較している。
 後者は、「文革」に影響を受けた左翼分子が中心となって起こし、8ヵ月も続いた。52人(51人説も)が死亡し、802人(832人説も)が負傷している。警官も少なからず殉職(10人)した。逮捕者は1936人に及んでいる。
 しかし、一昨年の事件では、警察と市民が衝突したが、基本的に誰も負傷していない。それなのに、何故「暴動」と言えるのだろうかと、林保華は疑問を呈している。
 半世紀前の当時でさえ、「暴動罪」では大体は懲役2年、障害罪や過失致死罪では懲役12年だった(爆発物設置罪等で、2人が無期懲役となっている)。
 なお、香港商業電台(Commercial Radio Hong Kong)のキャスター、林彬を殺害した容疑者は、逃走して「祖国」の庇護を受けているか、口封じのため殺されたのではないかと言われる。
 梁天琦が重罪となったのは、警察官が負傷したためだった。しかし、その診断である「1~2%の永久的障害」という描写が面妖だと、林保華は鋭く指摘した。それが梁重罪の根拠となっている。
 最後の香港総督、パッテンも、梁天琦への判決を重すぎるとして非難している。
 「67暴動」の最中、香港立法局は「公安条例」を成立させた。だが、パッテン総督時代には、それは悪法だとして、法律の適応が緩やかになった。
 けれども、香港の中国返還直後、臨時立法会が「(修正)公安条例」を成立させた。そして、特区政府は、その法律を最大限利用した。梁天琦のような「反中派」には「暴動」を理由に厳しく罰している(ひょっとして、香港法院は北京政府を意識<忖度>しながら、裁判を行っている可能性も否定できない)。
 今年5月18日、突然、梁天琦の裁判が午後4時半に開廷された。
 その際、裁判官の彭宝琴は、陪審団(香港は陪審団制度<21歳~65歳の香港居民>を採る)のいない状況で、担当検事と弁護士の双方、記者や傍聴席の人達に司法機関を通じて得られた4人の陪審員の写真メールを開示した。4人の陪審員らの容貌も明らかにされたのである。
 もし誰かが陪審員に対し「当局に協力せよ」と警告すれば、陪審員は話をおとなしく聞かざるを得なくなるだろう。
 結局、陪審団は裁判官による“誘導”ないしは“洗脳”で、梁天琦に対し重罪を決定した。以上が、林保華の見解である。
 今後、香港では、当局に少しでも反抗すれば、たちまち重罪に処せられる恐れがあるだろう。習近平主席が登場して以来、香港の「中国化」はとどまる所を知らない。「近代的」香港が「前近代的」中国に飲み込まれた“悲劇”と言える。この『進撃の巨人』(諫山創)に対し、香港人は如何に立ち向かうのだろうか。