澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -104-
香港の若者達の間に高まる「香港独立」運動

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政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所教授 澁谷 司

 近年、香港の若者の間に「香港人ナショナリズム」が高まりつつある。
 英国統治下の香港は、まさに「借りた場所、借りた時間」(1955年、女医ハン・スーインの自伝的小説を映画化した『慕情』の中での名ゼリフ)だった。
 大半の香港住民は、当地で稼いだ後、イギリス・カナダ・オーストラリア等への移住を目指していた。かつて香港は“永住の地”ではなかったのである。
 したがって、香港住民は当地で政治的権力を持つなど、ほとんど考えてはいなかった。彼らは政治と無縁の存在だったと言っても過言ではない。1980年代前半、中英間での香港返還交渉の時ですら、大半の香港住民は自らの命運を中国やイギリスに委ねていたのである。
 1982年、英国のサッチャー首相は、アルゼンチンとの「フォークランド紛争」(スペイン語名「マルビナス戦争」)に勝利した。その直後、サッチャーは意気揚々と北京へ乗り込んで行ったのである。
 だが、中英交渉では「鉄の女」サッチャーといえども、老獪な鄧小平には勝てなかった。そこで、(清朝からイギリスへ)“永久割譲”された香港島と九龍半島市街地(本来、イギリスが中国へ返す必要のない地域)までもが、1997年7月、中国へ返還されることになったのである。

 さて、鄧小平は、香港は「一国両制」(一国家二制度)の下、50年間、その社会システムは不変であると国際公約した。ところが、中国共産党は徐々に香港へその影響力を浸透させようとしている。換言すれば、北京は国際公約を破棄しつつある。
 “香港返還”以来、その行政長官は、現地有力者による「選挙委員会」が選出していた。だが次の2017年は「1人1票」の普通選挙によって、香港行政長官が行われる予定だった。
 その際、1200人の「推薦委員会」(「選挙委員会」からの横滑り)のメンバーのうち、150人の推薦があれば行政長官に立候補できる。
 その場合、「民主派」候補も推薦され、そのまま行政長官に当選する事も十分考えられる。もし「民主派」の行政長官が誕生すると、中国共産党のコントロールが効かなくなるだろう。
 そこで、2014年8月末、全人代常務委員会は、行政長官候補は(「親中派」が多数を占める)「推薦委員会」の600人以上の推薦がなければならないと選挙ルールを変更した。これでは「民主派」候補が出馬できない。
 そのため、翌9月から、学生を中心にして大規模な反政府抗議デモが起きた。それが香港「雨傘革命」である。「セントラル(中環)を占拠せよ」を合言葉に、北京に対して抵抗の意志を示した。

 以前から我々が指摘しているように、香港の若者にとって、中国共産党は『進撃の巨人』(諫山創)のイメージである。
 今まで香港人は、「3重の壁」に守られ平和に暮らしていた。だが、突然、“巨人”によって、次々と壁が破られて行く。そこで、ついに香港の若者達は立ち上がる決意を固めた。彼らにとって、香港は「借りた場所、借りた時間」ではなく、“永遠の故郷”なのである。「香港人ナショナリズム」が高揚したとしても不思議ではない。
 結局、同年12月中旬、香港当局によって「雨傘革命」は鎮圧された。
 だが、その翌年、すなわち昨2015年2月、英国による“香港回収”を求める「香港独立党」が誕生する。また、今年3月、香港の「独立」を目指す「香港民族党」が結成された。
 さらに、翌4月10日、一昨年の「雨傘革命」の中心的人物 黄之峰(ジョシュア・ウォン。香港公開大学学生。当時わずか17歳)が新政党「香港衆志」(Demosistō)を立ち上げ、その秘書長になっている(嶺南大学学生、羅冠聰<ネイサン・ロウ>が主席。香港専業進修学校学生 黎汶洛<オスカー・ライ>が副主席)。
 「雨傘革命」初期、学生団体「学民思潮」の中に“学民の女神”と呼ばれた周庭(アグネス・チョウ)がいた。周庭は途中で運動の中心から降りていたが、今回は「香港衆志」の副秘書長として加わった。

 以上のように、「一国両制」下の香港でも、「香港独立」の機運が高まってきた。1980年代の香港を知る者にとっては、まさに隔世の感がある。
 ちなみに、かねてより我々が主張しているように、香港の若者達の運動と我が国のSEALDs(シールズ)とは“別物”である。前者は、「香港人ナショナリズム」(「反中国」)に立脚した運動だが、後者は“リベラル”(やや左翼的)思想から、(自公)「保守政権」打倒運動を展開している。イデオロギーがまったく逆方向と考えられよう。