【特別寄稿】 「強制連行」とは憎悪表現である

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首都大学東京名誉教授 鄭 大均

 近年、「憎悪表現」や「憎悪扇動」についての議論を耳にするが、それを言うなら、ある集団には共感語として作用するが、他の集団には「憎悪表現」や「憎悪扇動」として作用するという言葉にも注目してほしいと思う。
 「朝鮮人強制連行」はちょうどそんな熟語で、学校教科書にも記載されているから、価値中立的な歴史用語と考える人がいるかもしれない。だが、この熟語を広めた『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)を読んでみればよく分かる。著者の朴慶植は、朝鮮人の被害者性とともに日本人の加害者性を誇張するためにこの熟語を活用したのであって、価値中立的な言葉などでは初めからなかった。
 そもそも、この熟語は、戦時期に労務動員された朝鮮人の体験を指して使われることが多いが、それを「強制連行」と呼んで、朝鮮人の被害者性や日本人の加害者性を語る態度はおかしくはないか。
 注意してほしいが、当時は朝鮮人も日本帝国の国民だった。だから不本意ながら朝鮮人も日本人の戦争にも巻き込まれてしまったのだが、「朝鮮人強制連行論」は、朝鮮人が炭鉱や軍事工場に動員されていたまさにその時期に、日本人の男たちが戦地に赴いていたことには触れないまま、労務動員された朝鮮人の被害者性や犠牲者性ばかりを語る。
 しかし朝鮮人に対する労務動員とは、戦地に赴いた日本人の男たちを補充するためのものであったのだから、それを無視して、朝鮮人の被害者性や犠牲者性ばかりを語るというのは、被害者論としても身勝手すぎると思うのだが、それを批判するものはいない(朝鮮人にも志願兵制度があったが、徴兵制が適用されたのは戦争末期の1944年のことであった)。
 にもかかわらず、この本は刊行されるや、ある種の人々に啓示を与え、実践に導く力となる。70年代、朝鮮総連は日本人に呼びかけて、朝鮮人戦時労務動員の調査・発掘を各地で行うが、それはやがて90年代以降、全国的な交流集会を生みだし、史料集を生みだし、強制連行プロパガンダの先鞭をつける。一方には、日本国を相手に戦後補償訴訟に取り組んだ弁護士たちもいたし、ILO(国際労働機関)にかつての労務動員が条約違反であると提訴する労働組合もあった。
 『朝鮮人強制連行の記録』は、日本の侵略史や加害史が日本国のアイデンティティにとって重要であると考える人々にとってバイブルのような存在であったというだけではない。この本は日本の社会運動に影響を与えたというだけではなく、戦後日本で刊行された本のなかでは例外的に国際関係にまで影響力を発揮したのである。
 とはいえ、この本が優れていたのは、その書名にある「朝鮮人強制連行」という熟語であって、その内容ではない。日本への憎悪を喚起しながらも、朝鮮人の犠牲者性への共感を示すというこの熟語の性格は、やがて国際社会において日本に対する否定的ステレオタイプ(固定観念)を形成する媒介となり、日本の尊厳を傷つけるに貢献するのである。
 「朝鮮人強制連行」の熟語はこうして世界を駆けめぐる。60年代半ば、日本の左派系メディアに誕生した「朝鮮人強制連行」のイディオムは、80年代以後、マスメディアや教科書に登場し、日本人の心に、韓国・朝鮮人に対する歴史道徳的な後ろめたさの感覚や思考を植え込むようになる。「朝鮮人強制連行」の熟語が優れているのは、それが日本の尊厳を傷つけるスティグマ(烙印)でありながらも、日本人の心に集団的な後ろめたさの感覚を植えつけるという両義的性格である。
 そして、90年代以後、「強制連行」の熟語は、「慰安婦」の単語に結びついて、新しい喚起力を発揮するが、この時期になると、日本よりはむしろ韓国によって国際社会に発信されるようになる。「朝鮮人強制連行」の熟語は、今や慰安婦を象(かたど)ったというあの少女像とともに、人類史上最悪の組織的犯罪がなされたナチス・ドイツに匹敵する犯罪国家日本というステレオタイプの伝播に寄与するところ大なのである。