明治維新はアジア諸国の人に何を意味したか

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顧問・東京大学名誉教授 平川祐弘

明治維新を文明史的に位置づける
 大和・奈良の時代から東京時代にいたる日本の歴史を鳥瞰(ちょうかん)し、その中で明治維新はどのような歴史上のターニング・ポイントであったか、いまシンボリカルな二人の人物に言及することで、その文明史的な位置づけを試みたい。
 日本の最高額紙幣に登場する人物は、二十世紀の八十年代までは聖徳太子で、二十一世紀の今は一万円札の福沢諭吉である。このような選定をした日本銀行関係者が、二人の歴史的意味をどこまで自覚していたかはさだかでない。しかし聖徳太子と福沢諭吉は、巨視的に見れば、それぞれ国際社会の中で日本が進むべき二つの文明史的方向を指し示した知的指導者であった。この二人が選ばれたことはきわめて象徴的といわなければならない。
 聖徳太子(五七四-六二二)は日本人の目を大陸に向けた、英語でいえばJapanʼs turn to China の政策を推進した指導者といえよう。聖徳太子は六〇七年に遣隋使を中国に派遣し、日本が漢訳仏典など漢字文化を学習することを奨励した。日本の知識層はその当時から千数百年にわたって漢文を習ったのである。しかし政治的には日出る国の日本は独立意識のある島国で、中国と宗属関係にあり小中華意識のあった半島地域とは違った。

古代中国から西洋近代へ――文明モデルの転換
 福沢諭吉(一八三四-一九〇一)は、日本が西洋の近代文明を学ぶ必要を言い、漢籍を捨てて洋書を読むべきことを説いた。福沢は明治維新の前にすでに三回にわたり西洋に渡航したことのあるただ一人の日本人で、オランダ語も英語も理解した。福沢は本人は漢文も達者だが、漢籍でなく英書により近代文明を学ぶことの必要を説き、和漢の旧弊な学者を「その功能は飯を喰う字引に異ならず」と揶揄(やゆ)した。福沢の『学問のすゝめ』はなんと三百五十万部売れたが、これは日本が識字率が高く読書人口が多かったからで、当時世界一のベストセラーである。
 第二次大戦後、左翼はそんな福沢が日本の「脱亜入欧」を主張したと非難した。福沢は論争家であり過激な口調でこう言ったのである。
 「一切万事、西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在りて新たに一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ」
 福沢はアジアの近代化を強く願い、朝鮮の開化派の人を助けた。アジア蔑視ではなくアジアの旧套を脱することの必要を説いた人である。だがそんな福沢の悪口を言うのが、戦後日本の劣等感にとりつかれ、それを「良心的」と取り違えた、気の弱い歴史学者たちの間では流行(はや)りとなった。