慰安婦問題の歴史的合意の背景

顧問・前韓国駐箚特命全権大使  武藤正敏

 11月2日の日韓首脳会談におきまして、両首脳は「国交正常化50周年を念頭に早期妥結を目指して交渉を加速化させる方針」を確認しました。これを受けて、12月28日、岸田外相が訪韓し行われた外相会談で、慰安婦問題の決着を見ました。今回は、年末ぎりぎりのこのタイミングで何故合意したのか、それは何を意味するか、この合意は確実に実施されるのかについて現時点での私の見解を述べたいと思います。
1. 合意の概要
(1)日韓両国外相は会談の後、共同記者会見を行い以下の内容を発表しました。

(イ)慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認する。

(ロ)軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた問題として日本政府は責任を痛感する。安倍内閣総理大臣は心からのお詫びの気持ちを表明する。

(ハ)元慰安婦を支援するため、韓国政府が財団を設立し、日本政府が10億円程度の資金を一括拠出する。

(ニ)両国政府は今後、国連など国際社会で本問題について互いに非難、批判することは控える。

(ホ)少女像については、韓国政府が関連団体との協議を通じ解決に努力する。

(2)この合意を受けて、両首脳は電話会談を行い、この合意を歓迎するとともに今後日韓関係を未来志向の関係としていくことを確認しました。

(3)また、米国のケリー国務長官、ライス安全保障担当特別補佐官が合意を歓迎する談話を発表しました。

(4)日韓間で慰安婦問題を妥結させる鍵は、慰安婦支援団体である韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」)を如何に抑え込むかです。その意味で、問題発生以来常に表舞台には立たず、一歩下がって日本政府の対応を見守るとしてきた韓国政府が、率先して解決に努力することになったことは重要です。日本がアジア女性基金を設立して問題解決に取り組んだ際には、挺対協の妨害により、元慰安婦が表向き基金からの「償い金」や総理のお詫びの気持ちを記した手紙を受け取ることができませんでした。韓国政府が表舞台に立ったことでこうした状況は変わってくるはずです。

2. なぜ今の時期にこの合意が成立したのか
(1)両首脳の意思
 韓国で行われた2つの裁判で韓国政府が日韓関係を前向きに進めたいとの意思を明確にしました。12月17日の加藤産経新聞前ソウル支局長が朴槿恵大統領の名誉を傷つけたか否かで争われた裁判では、「日韓関係改善の障害となっているため大局的に善処してほしいとの日本政府の主張を斟酌することを望む」との外交部の要請文書を踏まえて裁判所は無罪判決を出しました。さらに、憲法裁判所は元徴用工が1965年の日韓請求権協定が違憲だとして訴えていた裁判で、「この訴えは審判の要件を満たしていない」として却下しました。こうした判決は、これまで日本が絡んだ問題の判決で、裁判所が韓国の国民感情に配慮した判決を出していたことを考えれば、明らかに日韓関係改善を意識した判決と見ることができます。
 これを受け、安倍総理は岸田外相に年内訪韓を指示しました。朴大統領は年内に本問題の決着をつけることを強く希望していましたので、安倍総理が朴大統領の思いに応えた指示といえます。

(2)加えて、前述の判決に対するマスコミ報道は淡々と事実関係を報じるものが多く、判決内容を冷静に受け止めるものでした。むしろ、「過去の判決は国民感情に沿うかも知れないが、国際的には深刻な疑念を招いた。2011年の“政府が慰安婦被害者請求権を解決するのに努力しないのは違憲”とした決定もそういうものであった」という社説が見られたのは画期的なことです。こうして、日韓関係に関する韓国の国内世論の変化を感じ取ることができました。

(3)日韓間では、慰安婦問題の解決のために局長協議を12回行いました。また、11月2日の日韓首脳会談、6月22日の日韓国交正常化50周年の際の尹炳世外相の訪日を受けた外相会談を通じ、慰安婦問題解決の枠組みについて真剣に議論してきました。その過程で、挺対協の実態がいかなるものか、慰安婦問題が何故にここまで複雑化したのかについて議論を重ねてきました。その間、韓国政府は挺対協などとの接触も繰り返してきたようです。
 その過程で、双方の妥協案が練られていったのではないかと考えます。6月に、朴大統領が慰安婦問題の決着は間近だとの発言もありました。今回の決着の枠組みは、突然出てきたものではなく、議論を踏まえ、今般最終的に外相協議で決断したものと考えます。

3. 白黒をつけない解決
 日韓両国にとって、今回の決着の最大のポイントは日本政府の法的責任の問題をどう取り扱うかでした。その部分の表現振りは「日本政府は責任を痛感する」であり、挺対協が求めていた「法的責任」は含まれていません。反面、日本が主張していた「道義的責任」という表現もなっていません。
 しかし、韓国側の立場からは、「当時の軍の関与のもとに、多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた」「安倍総理は心からのお詫びの気持ちを表明している」との主体をはっきりした表現で、全体として見れば、慰安婦の名誉を回復すると言える内容を盛り込んでいます。
 一方日本側からすれば、安倍総理が朴大統領との電話会談で述べたように、財産請求権の問題は国交正常化の際に解決済みとの立場に変更がないと主張できる内容となっています。
 日韓関係では、白黒をつけない決着が最も現実的なのです。

4. 韓国国内の反応
(1)韓国政府のマスコミ対策と反応
(イ)韓国政府は、この案で決着を図るにあたり、国内世論対策を重視しました。そのため、日本のマスコミ報道によれば事前に合意内容を説明し、冷静な報道を要請したようです。さらに、韓国大統領府は朴大統領の国民向けにメッセージを発表し、「生存被害者が年々減り、現実的な制約もあるなかで最善の努力を果たした」「韓日関係改善の観点から理解してほしい」と呼びかけました。

(ロ)29日付けの各紙報道
 こうした努力の甲斐もあり、29日付けの韓国各紙は、挺対協の主張は載せつつも、社説等でこの合意そのものを批判することは控えていました。むしろ、「右派である安倍政権から、日本の民主党時代の提案からさらに前進させた妥協を勝ち取った」「“日本政府は責任を痛感”“安倍総理は心からお詫びの気持ちを表明”として主体をはっきりさせている。非常に評価できる内容」など有識者の発言を引用しつつ、これを受け入れる論調を展開しました。

(2)猛反発する挺対協
(イ)しかし、挺対協に属する元慰安婦、ナヌムの家の元慰安婦はこの合意の説明に赴いた外交部次官に対し激しく抗議しました。「合意を得る前に当事者である元慰安婦に相談もせず、慰安婦問題の不法性、法的責任に触れずに合意したのは、被害者と国民の思いを裏切るものだ」として反発したのです。また、慰安婦問題を象徴する少女像の問題で「“韓国政府が関連団体と協議して解決に努力する”とした点も屈辱的だ」と抗議しました。このグループの人々は、政治活動家の強い影響下でまとまって生活しています。従いまして、反発は予想されていました。しかし、こうした一部の元慰安婦の反発が、世論に如何に跳ね返るかが問題です。いずれにせよ、このグループの人々は最後まで妥協に応じない可能性があります。

(ロ)私は、挺対協の活動家が強く反発した背景は「法的責任」の扱いもさることながら、この合意によってその活動にたがが嵌められたことではないかと考えます。
 挺対協の活動の寄りどころは国内世論の支持です。この合意により、この問題の最終的かつ不可逆的な解決が図られれば、韓国の国内世論は慰安婦問題から目が逸らされ、挺対協に対する支持と支援は大幅に縮小するでしょう。
 また、日韓両国政府は今後、国連や国際機関でお互いを非難批判することは控えることで合意しました。挺対協は、日韓の交渉だけではこの問題の前進が困難と見えると、国連や米国で日本非難の活動を繰り広げ、国際社会の声を背景に日本に圧力をかけようとしました。韓国はこれまで、国連の人権委員会や様々な機関で日本非難を繰り返しましたし、朴槿恵大統領もいわゆる「告げ口外交」でその後押しを行いました。しかし、韓国政府が決着に合意すれば、国際社会の支持は得られなくなります。
 挺対協は、元慰安婦に対する支援活動としてばかりでなく、自身の政治目的のために活動を繰り広げてきた面が強いので、慰安婦問題で日韓両国政府が妥結に合意すれば自身の存在意義がなくなるのです。従いまして、挺対協が100%満足する解決以外受け入れない体質があります。今回の合意は、それを打ち砕いたのです。

(3)マスコミ論調の混乱
 其の後のマスコミの報道には混乱も見えます。慰安婦合意の成否は説得と真正性(合意を真摯に守るとの姿勢)に掛かっているとの社説や、被害者の納得しない合意は無効だとの学者の投稿も載せており、野党は再交渉を強く求めています。
 こうした事態を受け、大統領府は「今回の合意は最善を尽くした結果であり、これを無効といえば、今後どの政府もこうして難しい問題には手を付けられないだろう」と反論しています。こうしたやり取りはしばらく続くでしょうが、マスコミが冷静でいられるか否かが、収束のカギでしょう。

5. この合意によって問題は解決するのか
 挺対協に属する慰安婦はこの合意に強く反発していますが、それは元慰安婦の一部のみであり、元慰安婦にも色々な考えの人がいます。この解決に反対しているナヌムの家の元慰安婦の中にも、「満足はできないが政府も苦労したので政府に従う」とする人がいます。挺対協やナヌムの家で生活する強硬派の元慰安婦は生存する元慰安婦46人の1割強と考えられます。その他の慰安婦の中には挺対協は慰安婦を代表するものでないと批判する者もいます。
 アジア女性基金の際の以下の経緯に照らせば、今回新たに設立する基金から、ほとんどの元慰安婦は償い金を受け取り、それによってこの問題は終止符を打つのではないかと期待されます。
 アジア女性基金の償い金の時も、当初7人受け取ったところで、挺対協が横やりを入れ、元慰安婦に償い金の受け取りを拒否させました。さらに、既に受け取った元慰安婦に対しては、様々な嫌がらせを行い、「日本から金を受け取るのは売春婦」とさえ非難しました。それが慰安婦支援団体のすることでしょうか。それでも、さらに54人の元慰安婦がアジア女性基金の償い金を受け取っています。挺対協が受け取りを拒否させなければ、ほとんどの元慰安婦は償い金を受け取り、その時点でこの問題は解決していたでしょう。
 アジア女性基金については、韓国政府は当初一定の評価をしていましたが、挺対協の反発で徐々に後退し、最後には「どのような形式であれ、被害者が納得する措置を日本政府は取ってほしい」として問題を日本政府に丸投げしたのです。
 しかし、今回は、新しい基金は韓国政府がつくるものです。挺対協は自分たちの支配下にある元慰安婦など一部の人には受け取りを拒否させるかも知れませんが、大半の元慰安婦はお金を受け取り、この合意を受け入れてくれるものと考えます。
 そうなれば、韓国の国内世論も慰安婦問題の決着を受け入れ、日本を非難し続けてきた、挺対協は孤立することになるでしょう。そういう状況となれば、挺対協に属する元慰安婦など頑なに拒否してきた元慰安婦も、自分たちだけが除け者にされるのを潔しとせず、償い金を受け取るかも知れません。

6. 最後に残る問題はいかに少女像を大使館前から撤去させるか
 しかし、少女像の大使館前からの撤去の問題は最後まで懸案として残るかも知れません。これについては、直近の韓国の世論調査でも約3分の2の人々が反対しています。少女像撤去のカギは、早期にこの問題の解決を韓国国民に意識させることです。この問題が、最終的に解決した時には、抗議のために日本大使館前に設置したとする意味合いはなくなり、記念碑的なものとなるでしょう。そうなれば、挺対協の運営する場所に移すのが道理です。
 韓国の国民世論には冷静になってもらい、大使館前でデモ活動を行うことはそもそも違法であることを理解してもらう必要があります。韓国国内の世論対策に腐心している状況で、韓国政府がこの問題でいかなる対応ができるか、しばらくは日本政府の忍耐力が試されるのかもしれません。




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