「日帝強占期」、もう一つの憎悪表現

首都大学東京名誉教授  鄭 大均

 最近話題になるヘイトスピーチは、憎悪表現とか憎悪扇動などと訳される。日本では在 日韓国・朝鮮人に対するそれがとりあげられることが多いが、憎悪表現や憎悪扇動の形態 は多様であり、一見、道徳的な装いないしは中立的な装いで語られ、喧伝される憎悪表現 や嫌悪表現があっておかしくない。人びとの意識を変え、社会を変える力をもつのはむし ろそんなタイプの言葉ではないだろうか。
 たとえばここに、2000年代に入ってから韓国で多用されるようになった「」という時代 区分がある。「日本帝国主義がわが国を強制的に占領した時期」の意で、日本が朝鮮を支 配した1910年から45年までの35年間を、近年の韓国ではそのように呼ぶことが多い。時代 呼称が日本への憎悪を喚起するという例である。
 以前には「日帝時代」や「植民地時代」の呼称があり、さらに以前には「倭政時代」や 「日政時代」の呼称もあった。それが今日、韓国のワープロで「日帝時代」とか「日帝植 民地時代」と打つと、自動的に「日帝強占期」に転換されたり、赤い下線が表示されたり する。それは政治的に正しくない言葉ですよという警告である。これではまるでジョージ ・オーウェルの『一九八四年』の世界みたいである。
 ということで、「日帝強占期」の呼称については何度か批判をしたことがある。この呼 称が北朝鮮で使われている韓国史の時代区分の書き写しであり、「日帝強占期」の後に来 るのは「美帝強占期」、つまり北朝鮮流にいえば、今日の韓国はアメリカ帝国主義の占領 期と見なされているのだとか、この呼称が教科書作りに参与した「民衆史学者」たちによ ってもたらされたものであるといった指摘で、いずれも韓国の歴史学者・丁慶姫教授から 主にはネットをとおして学んだことである。改めて、若干、記しておきたい。

 「占領」ではなく「併合」である
 「日帝強占期」の呼称、2000年代に入って教科書に登場するや、あれよという間に他の 呼称を押しのけ、独裁的なプレゼンスを発揮し、今や韓国では日韓併合期をナチス・ドイ ツによるフランス占領のごとき「軽さ」で語るとともに、その関心は、戦時期の「慰安婦 」や「強制徴用」の問題にばかり集中、日本支配の「悪」や「否定性」が喧伝される昨今 であるが、そもそも「日帝強占期」の呼称は、なにがまちがっているのか。
 日本統治期の呼称が、「倭政時代」や「日政時代」から「日帝時代」や「日帝植民地時 代」を経て、今日の「日帝強占期」に変化してきたことは記した。細かくいえば、そこに はよりこみいった経緯があって、今日の「日帝強占期」に匹敵する恣意的な呼称というな ら、「日帝暗黒期」や「国権被奪期」の例があったし、「日帝強占期」の呼称も70年代に 部分的には使われた例がある。
 「日帝強占期」の呼称にはじめて接したときにはオヤと思っただけであるが、やがて違 和感とともに、ある種のうまさを感じたものである。日本統治を「強制的占領」と形容す ることによって、日本の加害者性や暴力性を誇張しながらも、「占領」の単語を使うこと によって、韓国人に歴史的屈辱の感覚を軽減させる効果があるように見えたからである。 とはいえ、感心ばかりしていたわけではない。この呼称には、時代区分らしからぬ恣意 性があり、歪曲があるからである。なによりも、この時代の朝鮮は日本帝国の一部を構成 していたのであって、それを「占領」と呼ぶのはおかしい。
 いいかえると、ナチス・ドイツによるフランス占領が「占領」であっていいのは、この 時代のフランスにはヴィシー政権があり、曲がりなりにも、独立が維持されていたからで ある。占領であったからこそ、レジスタンスや連合軍によって解放されたとき、フランス は4年前の国家と社会体制に復帰することができたのである。
 このフランスの経験に比べると、日本による朝鮮統治は35年間であり、韓国が外交権を 失い、日本の保護国に転落した1905年から数えると、それはさらに長くなる。またナチス ・ドイツによる占領期にフランスが独立を維持していたとすると、この時期の朝鮮は朝鮮 総督府によって統治され、彼らは日本の法や制度や言語を移植し、朝鮮人の日本人化を試 みたのは周知のとおりである。
 さらにいえば、レジスタンスや連合軍によって解放されたとき、フランスが4年前の国 家と社会体制に復帰することができたのに対し、連合軍の勝利によって解放された朝鮮の 地には、復帰するにも、大韓帝国(1897〜1910)の王朝や社会はもはや存在しなかった。 その間に、人びとの言語や思考や文化や社会が経験した変化の「重さ」も重要であろう 。「占領」という言葉はこの「重さ」を無視し、忘却するには都合がよいが、それでは歴 史の歪曲になるということである。
 それにしても、あの時代の日本をナチス・ドイツにたとえる態度には、日本に対する悪 意とともに、ナチス・ドイツに対する無知が見えて気色が悪い。それでも日本をナチス・ ドイツにたとえるという悪癖はこれからも続くのだろうが、それなら、あの時代の朝鮮はヨー ロッパのどの国の体験に類似しているのかを少しまじめに考えてみたらどうかといいたい 。そうすると、「フランス占領」などというより、1938年8月13日のドイツによる「オー ストリア併合」に思い至るというのが、常識的な判断であろう。
 無論ここでも短さが気にはなる。にもかかわらず、オーストリアとナチス・ドイツとの 間にはただならぬ紐帯関係が形成されていたことは注目に値する。トニー・ジャット著『 ヨーロッパ戦後史』(みすず書房)には、人口700万人弱のオーストリアに70万人ものナ チ党員がいたとか、ウィーン交響楽団の団員117人中、45人がナチ党員であったという記 述があって興味深い。ちなみに、ベルリン交響楽団の場合、楽員110人中、ナチ党員はわ ずか8人であったという(同書、69頁)。
 このナチス・ドイツとのただならぬ共鳴現象を可能にしたのは、ドイツとオーストリア との間にある民族・文化的な類似性であり、これは日韓の状況とは異質である。しかしそ れでもオーストリア体験に注目したいのは、ポスト併合期の体験に、韓国のそれを想起さ せるものがあるからである。ナチス・ドイツとのただならぬ紐帯関係にもかかわらず、戦 後政治においてその責任が問われるということが少なかったのは、なぜなのか。ジャット が記しているところによると、1943年の連合国合意で、オーストリアはヒトラーの「最初 の犠牲者」であったと公式に宣言されていたからであり、また戦後におけるオーストリア 史の恣意的な書きなおしは、各方面の利益にかなうものであったからである(同書)。 これは部分的にではあるが、韓国の経験を想起させてくれるものである。戦後の韓国は 、その反日主義の過程で、ほんの一部の韓国人に「親日派」の烙印を押しながら、多くの 韓国人を抵抗者や犠牲者に仕立てあげ、「被害と抵抗」の物語を作り、それを国民教育に 利用し、国際社会にも発信したが、日本も含めて、それに異を唱えるものはほとんどなか ったのである。
 なお筆者は、去年、『日韓併合期ベストエッセイ集』(ちくま文庫)というアンソロジ ーを刊行した。35年間の日本統治は韓国人の言語や思考や社会制度を大きく変え、また日 本人にも多くの教訓を残したが、そのことについての想像力が韓国人からも日本人からも どんどん失われているのが気になる。この本はその失われた想像力を日本人や韓国人に回 復してもらうための試みのつもりであった。



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