<連 載>台湾で「敬天愛人」を実践した南洲翁の子
政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所准教授 丹羽文生
niwa義足を装着
 蘭陽平野の中心にある宜蘭県宜蘭市の中を流れる宜蘭川に「西郷堤防」と呼ばれる巨大な堤防がある。日本の台湾統治初期の頃、初代宜蘭庁長を務めた西郷菊次郎の采配によって建てられたものである。父親は、大久保利通、木戸孝允と並んで「維新の三傑」の1人に数えられ、明治維新最大の立役者で知られる南洲翁こと西郷隆盛である。
 西郷は1861年1月2日、隆盛が奄美大島に流刑になった折に、島妻(アンゴ)の愛加那との間に庶子長男として生を受けた。9歳の時に西郷本家に引き取られ、その後、アメリカに留学し、隆盛を盟主とする薩摩士族が起こした西南戦争では一兵卒として従軍した。この時、右足に銃弾を受け膝下を切断するという戦傷を負い、以後、義足を装着することになる。
 1884年5月、西郷は叔父である従道の計らいで外務省に奉職した。翌年1月には在アメリカ公使館勤務を命ぜられ、途中、義足を着けた右足の治療のため帰国するも、続いて宮内省式部官、外務省翻訳局翻訳官となり、やがて永吉家の久子と結婚し、7男7女の子宝に恵まれた。
 西郷に台湾赴任の要請が飛び込んできたのは1895年3月のことであった。日清戦争勝利により台湾が日本に割譲されるため力になってほしいという海軍大臣となった従道からの依頼であった。西郷は台湾総督府参事官心得として台湾に出向いた。34歳の時である。だが、当時の台湾は、まだまだ不安定な状態にあった。住民の意向に反して日本に統治されることは承服できないとして、台湾全体に憤激の嵐が沸き起こっていた。
 樺山資紀以来、2年9ヵ月の間に桂太郎、乃木希典と、台湾総督が相次いで代わり、台湾の統治は完全に行き詰っていた。西郷は、いかにして住民の心を和らげるか日夜、悩み続けた。考え抜いた末に出た結論は、少しずつ住民の心の中に、こちらの心を溶け込ませる努力をしていくしかないというものだった。

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