【連載】台湾で愛される日本人(7)

台湾近代化の礎を築いた名トリオ

政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所准教授 丹羽文生
miwa 「台湾売却論」まで
 19世紀に至るまで台湾は、手の施しようがないほど荒れ果てていた。騒擾を繰り返す「化外の民」が跳梁跋扈し、コレラ、ペスト、チフス、赤痢、マラリアといった伝染病、風土病が蔓延る「瘴癘の島」として、そこを支配していた清国も事実上、領土外扱いしていた。そのため、清国から台湾の割譲を受けた日本にとって、統治がスタートした直後は苦難の連続であり、余りに過酷な環境故、「台湾売却論」まで出る始末であった。
 このような状態にあった台湾に一筋の光を灯したのが児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造の名トリオであった。新渡戸と言えば、旧5,000円札の肖像画で有名である。流麗な英文で書かれた稀代の名著『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を著し、「太平洋の橋」を使命とした国際人である。その新渡戸を台湾に招いたのが後藤である。後藤は関東大震災後、内務大臣兼帝都復興院総裁として壮大な帝都復興プランを打ち立てた都市計画のスペシャリストで知られる。2人は同じ岩手県人だった。そんな後藤を自らの片腕としてスカウトしたのが第4代台湾総督の児玉であった。言わずと知れた日露戦争の英雄である。彼ら3人なくして台湾近代化は成し得なかった。
 児玉が総督として台湾に赴いたのは1898年3月のことであった。それまでの樺山資紀、桂太郎、乃木希典の3人の総督が特に苦心したのは、台湾全島に群がる土匪、つまりゲリラへの対応だった。いずれも明治日本を代表する名将である。ところが、実力によって潰滅させようと試みるも、なかなか成果は上がらなかった。
 児玉は赴任に当たり、後藤を帯同させた。臨時陸軍検疫部事務官長として日清戦争後の帰還兵の検疫に卓越した手腕を発揮した後藤を、検疫部長だった上司の児玉は早くから注目していた。
 後藤は最初、民政局長に発令された。台湾は1896年4月に軍政が廃止され民政に移管されたが、まだ軍人社会であった。そこで児玉は民政への完全移行を図るため、民政長官という新たなポストを設け、後藤を任命した。民政全てを後藤に任せたのである。

続きをご覧になりたい方は...



ホームへ戻る