≪追悼≫
鬱勃たる憂国の情

政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所准教授 丹羽文生
 中條高コ先生の訃報に接したのは1月8日朝のことだった。入院中とは聞いていたが、煩を避けての静養であると信じ込んでいた筆者は一瞬、耳を疑った。暫くすると、まるで抜け殻にでもなったような虚脱感と寂寥感に襲われた。その日は一日中、あの屈託のない先生の笑顔が頭から離れなかった。
 87年の生涯だった。まさに天寿全うであるが、やはり寂しい。悲しい。残念でならない。
 最後に会ったのは、昨年10月17日、ホテルグランドヒル市ヶ谷で開かれた日本戦略研究フォーラムのシンポジウムの時だった。酸素吸入のための細いチューブを鼻に装着し、車椅子に乗って控え室にやってきた先生を見た瞬間、暫し言葉を失った。
 しかし、先生は筆者の顔を見ると、いつものように右手を上げられた。直ぐに駆け寄り、2ヵ月前に産まれたばかりの長男の写真を見せると、筆者の背中を擦りながら一言「可愛いなぁ。曾孫だなぁ」と仰って下さった。本当に情誼に篤く、人情溢れる人だった。
 シンポジウムの開会挨拶で、先生は最後に「私も87歳となり、いつも『今日が最期かな…今日が最期かな』と思うこの頃です。『最期の時』は神仏がお決め下さるでしょうが、今日の挨拶を私の最期の声と思って聞いて下さい」と述べられた。今から思うと、天命の尽きんとすることを自ら悟ったような言葉である。しかし、その時は、いつもの冗談だろうと気にも止めなかった。
 先生とは50歳以上も歳が離れている。いつしか先生に会う度に、まずは先生の肩を揉むことが当り前になっていた。おじいちゃんと孫のようなものだった。
 白のスタンドカラーのシャツに黒のスーツ姿、古武士然とした気風を持った先生が現れると、そこには凛とした雰囲気が漂うのを感じていたのは、筆者だけではないだろう。経済界の重鎮、言論界の長老として、ユーモアを交えながらも、「今日の日本と日本人」に対して、実に鋭い警句を発していた。

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