2001年1月2日、二度目の北京勤務を終えて私は東京に戻った。同じ日、読売新聞の朝刊は、外務省機密費疑惑事件を報道し、これが一連の外務省スキャンダルと称される出来事の始まりとなった。苛烈な外務省バッシングの始まりでもあった。そしてチャイナ・スクールも散々叩かれた。外務省に対する批判は、正しい側面もあったが、承服しがたい面も少なくなかった。私にとって外務省生活41年における最も嫌な、苦々しい日々の連続であった。
そして、どうしてこういうことになったのか否が応でも徹底的に考えさせられた。
まず、組織として批判されるべきところは間違いなくあった。いかなる組織にも組織の理屈はある。それは組織の必要から始まったものが多いが、多くの場合、社会一般とは関係なく独自の発展ないし変化をする。結果として社会の常識から乖離していく。例えば我々が必要と思う予算手当がなされておらず、緊急避難的に始まったルールがいつの間にか定着し、それが普通になる。結果は、社会の常識からの乖離であり、外務省の常識が社会の非常識となる。こういうことを自分で是正できなければ、ときどき社会から糾弾されて修正するしかない。しかし外交官試験が外務省員のエリート意識を高めているので廃止するといった類の理屈は、少なくとも私には全く理解不能だ。外務省改革の問題点も少なくないのである。
だが外交そのものと、それを支える外務省の在り方については、更に深く考えさせられた。日本外交に対する国民の不満や反発も確実に強まっていたのだ。やはり惰性で外交をやっていた面があったことは否めないのではないか。忙しかったせいもあるが、更に踏み込んで徹底的に考える作業を日常的にやれていなかったのではなかったか。これらは、少なくとも私個人の反省点ではあった。日本外交に対する国民の不満や反発を前に、ある先輩は「これまでひたすら“良い子”をつとめて来た日本人は、この“良い子”役に、いい加減にしてくれと反発し始めている。中国だけではなく米国に対する反発も強まっている」と解説してくれた。
だが、それだけであろうか。どうして国民はこれまでの外交に、このように反発するのであろうか。やはり営々として続いてきた戦後外交そのものについて再考する必要があるのではないか。そう感じ、思考を重ねていくと、私は次第に外交にも55年体制があったのではないかと思い始めた。
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