初めて会ったのは「面接試験」
私が日本戦略研究フォーラム前会長、中條高コ氏と初めてお会いしたのは、平成24年11月26日のことだった。長野俊郎、禮子夫妻のお引き合わせだった。神田神保町にある自然薯料理の割烹「ふじ」で、会食しながらの出会いであった。後日、長野さんから聞いた話だが、この初対面は、実は中條会長の私に対する「面接試験」だったそうである。
発端は、この2ヵ月前に遡る。産経新聞論説委員長だった中静敬一郎さんから突然電話が入り、「筆坂さんと兵庫県立伊丹高校で同級生だった長野俊郎という人が、筆坂さんと会って話したいと言っているのですが、いかがでしょうか。長野さんは日本戦略研究フォーラム(JFSS)の常務理事をされています」という内容だった。我々世代は、所謂、団塊の世代で当時の伊丹高校は1学年だけで12クラスあり、650人ぐらいが在籍していたので、まったく存じ上げなかったが、「保守系シンクタンクか、面白そうな人だな」と興味を抱いた私は即刻快諾し、中静さんも交えて痛飲し、意気投合した。
その長野さんが、私をJFSSに参加させて良いかどうか、その判定を中條会長に頼んだというのが「ふじ」での会食だった。
色んなことを話したのだが、一番嬉しかったのは、中條会長は、私が共産党離党後に著した『日本共産党』(新潮新書)を既に読んでおられ、「君が共産党に入党したのも、私が陸軍士官学校に入ったのも、思いは同じだ」という趣旨の話をしていただいたことだった。私は18歳で共産党に入党したのだが、当時、私は「自分は何のために生まれてきたのか。自分など社会にとって不要な人間ではないのか」などと自分の存在意義を見つけることができず悶々としていた。そんな時に出会ったのが社会主義革命を目指す日本共産党だった。「資本主義から社会主義への発展は必然」というマルクス主義の理論は、人類解放の理論として私を強く捉えた。共産党に入党することは、歴史の「必然的」な発展に寄与するというのだから、そこには強烈な使命感が付与されるのは当然であった。この必然性こそ、共産党の激しさの大本となってきた。
勿論、共産主義は、所詮はユートピア(どこにもないところ)思想に過ぎなかった。現実の社会主義体制は、人類解放どころか、専制主義的一党独裁の人類抑圧社会でしかなかった。いまでは資本主義から社会主義への発展は必然、などと思っている共産党員は殆どいないだろう。
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