1896-1897(明治 29-30)年、九州から沖縄(南西諸島)を経て台湾まで繋ぐ海底電信線敷設工事が行われた。この工事は、日本による日清戦争勝利の直後で、アジア進出を加速する欧米列強に対抗し国家としての威信をかけて臨んだ国家的プロジェクトでもあった。当時の世界最先端技術であった海底電信を敷設する専用船は新造「沖縄丸」と命名された。
「沖縄丸」による沖縄への海底電信線敷設の詳細やその後の同船の軌跡を検証することで、当時の東アジアを取り巻く国際情勢と日本国の中の「沖縄」の位置づけが改めて浮かび上がってきた。米軍普天間基地の移設問題が注目を集める中、沖縄或いは南西諸島の日本における価値や役割を論ずる一助になることを期待し寄稿するものである。
●「沖縄丸」建造
明治政府は 1895(明治 28)年、英国に海底電信敷設専用船を発注する。発注先は英国グラスゴーのロブニッツ社であった。英国側からすれば先端技術を東アジアの新興国に提供することで同盟国に引き入れる狙いがあり、日本側からすれば切望していた自国での海底電信線敷設が可能となるというものであった。日本における最初の海底電信線敷設専用船、「沖縄丸」の誕生である。「沖縄丸」発注及び翌年の九州から台湾に至る海底電信線敷設工事の総責任者を務めたのが、陸軍の児玉源太郎である。「沖縄丸」の命名も児玉によるものと思われる。
児玉は、現地イギリスとの交渉は加藤高明在英特命全権公使を通じて行っていた。児玉は竣工予定の 1896(明治 29)年春に向けて「沖縄丸」の授受及び日本への回航要員の選考を指示、日本郵船株式会社の職員を中心に召集し、その責任者に片岡清四郎を選任し、一等運転手(現在の航海士)に職務を嘱託した。船長には当時横浜在住の英国人アーレンが内定された。船長は形式であり、実質は片岡が業務を取り仕切った。
4 月 14 日「沖縄丸」が英国側から日本側に引き渡され、英国のグラスゴーを出帆した。 英国から日本への回航は、当時としては極めて難事業であり、幾多の予期せぬ苦難が待ち受けていたが、スエズ運河、インド洋、南シナ海を抜け、見事に 6 月 27 日長崎港に無事に回航してきた。
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