沖縄に生まれ育った若者は、余程特別な環境、また強い熱意のある者以外は政治に関心もなく、特に歴史については学校で日本を悪く教えられるため、偏った思想を持つ方が多くなっています。
更に、知識を得る場を新聞やメディアに求めると、より「洗脳」されてしまいます。正しい認識を持つためには自分なりに学ばなければいけません。
私はある日突然、日本文化チャンネル桜沖縄支局の見習いキャスターとしてカメラの前に座る事になりました。素人の私の緊張と自信のなさは、しっかり画面に映し出されていたことでしょう。番組を観た視聴者から多くの叱声や冷やかしが届きました。これではいけないと改めて沖縄の歴史と政治に目を向け、特に沖縄県の基地問題について取材をしながら学んでいる最中です。そこで今回、沖縄の若者として基地問題をどのように捉えているかについて、執筆することにしました。
普天間飛行場の移転問題
極論を言えば、外国軍の基地はない方がよいに決まっていいます。以前、鳩山由紀夫首相(当時)による「でまかせ」から出た米軍普天間飛行場の県外・国外移設の話がありました。鳩山首相が県外・国外と口火を切ると、沖縄の政治家や学識経験者までが新聞テレビで「県外・国外」と叫ぶようになり、結局鳩山首相が抑止力を学んだだけで、終結してしまいました。沖縄の自民党所属の県議会議員や国会議員までもが同調させられた挙句、上げた拳を下ろすにもままならず、自民党本部からの圧力によって辺野古回帰を決めさせられたのです。本来なら沖縄からよりよい普天間基地の返還案をまとめ、政府に示す事が沖縄の政治家、学識経験者の責務だったはずですが、その責務のかけらさえなかったのです。
1996年、橋本龍太郎首相(当時)と大田昌秀元知事(当時)は世界で一番危険な飛行場と言われる普天間基地を返還するため、辺野古沖合に代替施設を造ることに合意しました。しかし、大田元知事が土壇場で建設を拒否します。その後の知事選で落選して、稲嶺恵一知事が誕生すると、稲嶺知事は、日米政府、県、名護市が合意した代替施設建設に際し「15年使用したら返せ」と主張して県民を呆れさせたのです。
仲井真弘多知事の代になってから、キャンプ・シュワブ沿岸部の一部埋立てによるV字滑走路案に落ち着き、いよいよ移設作業は着手されるものと期待されました。しかし、仲井真知事と島袋吉和前名護市長は、騒音への配慮から「V字滑走路の埋め立て位置を100メートル沖合に移動せよ」と要求して日米政府と確執を生じさせました。
その一方で、辺野古住民が座り込みの反対闘争をしたり、支援者が小型船を繰り出して環境アセスメントを実力で阻止したりしました。「基地をたらい回しにするな」「ジュゴンを守れ」「サンゴが駄目になる」というのが主な反対理由でした。
こうして普天間基地の移設計画はもたつき、沖縄国際大学構内のヘリ墜落事故に繋がっていったのです。
|