【講座】

帝国主義列国に翻弄された日本帝国(下)

政策提言委員・高知大学名誉教授 福地 惇

fukuchiW 戦争と革命
 さて、ハリマンの満鉄共同経営策謀が頓挫した頃、ポーツマス講和条約に定められた諸条件に基づくロシア利権引き継ぎに関する日清条約が調印された。1905(明治38)年12月のことである。清朝は、ロシアに認めていた満洲の利権を日本へ移管することを承認した。日清条約に基づき日本は南満州開発に着手したのである。ところが、1911(明治44)年10月、大陸では「辛亥革命」が勃発した。日露戦争が終わって6年目、日韓併合の翌年であった。混沌状況のシナ大陸が、この「革命」で直ちに新たに安定した統一国家になったのでは勿論ない。発足した革命政府では12月に孫文が臨時大総統に就いたが、内部抗争が多く支持勢力は弱く、間もなく引退した。翌年3月には軍閥の雄である袁世凱が中華民国臨時大総統に就任し、首都を北京に構えた。だが、実態は清王朝崩壊の大混乱で、広い大陸は「軍閥割拠」の戦国時代に突入し、我が国との外交関係も非常に不安定になった。ここから更なる帝国主義列国の権益拡張行動が加速して行くし、近隣の我が国は否応なくその波に巻き込まれるのである。近代日本の大きな悲劇の始まりであった。
 このような時期に欧州では大戦争が起こった。本質的には欧米内部の覇権争いであったが、彼らの植民地が分布するアフリカ、中近東、極東まで戦線は波及・拡大したので第一次世界大戦《1914(大正3)年7月から1918(大正7)年11月まで》と呼ばれることになった。我が日本帝国は日英同盟に基づく責務で対独戦に参戦した。混乱続きで国家体制も整う間もない中華民国も同じく英国に逍遥されて参戦の形を採った。シナは殆ど戦闘の場面をもたなかったが、我が国は連合国の為に軍事的に大いに働いたのだった。



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