民意を反映した必然政権
―酷似する自民党とイタリア連立政権―
日本の戦後の政界地図の変遷をみれば自民党右派の安倍政権はできるべくして出来た政権と言っていいのではないか。
1960年代後半、私はイタリアに赴任したが、そこで繰り広げられる政党乱立の様を見て驚いた。当時イタリアは比例代表制で、獲得率に相当する議席が与えられたから50党ほどの政党が犇めいていた。第1党は保守のキリスト教民主党で第2党が共産党、いずれも30%強の得票。第3党は社会党だった。政界の前提は、第2党の共産党を除くために第1党のキリスト教民主党と社会党が手を組み、更に民社党、共和党を抱き込むことだった。
それぞれの党が綱領を持ち、政策を打ち出すから、連立内閣の中で調整するうちに、その政策をどの党が打ち出したのか不明になる。この連立政権は実は当時の自民党そっくりだった。自民党の派閥にはそれぞれカラーがあり、佐藤内閣の時に三木武夫外相が日米安保条約を否定するようなことを言い、怒った佐藤首相が「この人を外相にしたのは私の不明の至りだった」と答弁する場面もあった。この三木氏は後に首相になるのだが、日米安保条約を結んでいるのに米、中、ソへの“等距離外交”を唱えた。
自民党という1つの名の下に、左派から右派まで抱える様は、さながらイタリアの連立内閣そのものだった。
自民党の保守本流と言われるのは池田勇人、佐藤栄作の二大派閥で、その特徴は経済重視と反共産主義だった。2人の恩師で首相でもあった吉田茂氏は、再軍備に反対し経済重視路線を貫いた。後に吉田ドクトリンと呼ばれたが、この思想によって経済の再興を果した反面、国防の観念が薄れ、憲法改正の気運さえなくなった。憲法改正を行うべしと述べたのは岸信介氏と中曽根康弘氏ぐらいのもの。岸派を継いだのは福田赳夫氏だが、この人は三木氏の等距離外交をやめて「全方位外交」と称した。核不拡散条約に真っ先に加盟したのもこの人だ。傍流の中曽根氏とこれまた傍流の福田派(現町村派)から安倍氏が憲法改正を唱え得たのは、保守本流の軛が無かったからではないか。
イタリアの連立内閣をみてわかったのだが、本流となるためには党是を捨てて、ひたすら内閣をまとめなければならない。自民党の保守本流が憲法改正に不熱心だったのは、それを唱えていたのでは、野党が反発して国会で法案が1本も通らない事態になるからだ。
日本では保守合同、イタリアでは共産党を除く連立内閣。これは国政を社会主義政党(共産党を含む)に任せられない事情があった。どちらも万年与党で腐敗していたが、国民は共産化よりはましと我慢していた。ソ連邦の崩壊によって選挙制度をどう変えようと、もう怖くない。日本もイタリアも政権交代を可能とする小選挙区比例代表並立制に変えた結果、それぞれ政権交代を果した。民主党政権のあと、強い自民党を再登板させたのは欠陥政治を糾せという民意だろう。
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