「集団的自衛権行使容認解釈漸く」自公合意
―国会対策的憲法解釈の終焉―
集団的自衛権の行使を認める“憲法解釈”がようやくまとまった。朝日新聞や毎日新聞の論調や記事の取り上げ方を見ていると、本来、集団的自衛権は「行使できない」と解釈するのが当然で、それを“ムリヤリ解釈”を強行しようとしていると言わんばかりだ。
問題を整理してみる。
憲法では明白に「自衛権」が認められていると解釈されている。第9条1項だけ見れば“丸腰”を強要されているように見えるが、第2項に芦田修正条項が加えられ、66条には文民条項が加えられたことによって憲法では自衛権を否定されてない。この解釈は占領終了直後から確立されている。
一方、国連憲章では自衛権には「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方があると想定している。日本は米国との間に「集団的自衛権」(日米安保条約)を結んだから、これを行使することも当然、自衛権に含まれる。以上が国際的普遍的解釈だが、日本では「集団的自衛権」を結ぶ「権利はあるが行使はできない」との奇妙な解釈が何十年も続いてきた。
自民党が日米安保を結んだのに対して、社会党は締結後も反対を続け、およそ議会政治とは言えない多数決無視の態度をとってきた。この自社対決の国会を動かそうと、官僚(内閣法制局)が考え出した悪知恵が、「権利はあるが行使はできない」との仲裁案だ。これは実質的に「安保条約を持ってない」というに等しい。米ソ冷戦時代はほとんど日本の出番がなかったから「無手勝」で済んだ。
しかし、いま、中国は南シナ海、東シナ海へ侵出し、その先に太平洋の覇権を握ろうという野心を漲らせている。国際情勢は日米安保条約をより必要とする時代に変遷しつつある。
従来の“国会対策的憲法解釈」では済まされない事態に直面しているのである。この期に及んで大新聞が「憲法改正をやるべきだ」と主張することは今までの憲法解釈はインチキだということに他ならない。また憲法改正にはあと10年かかる。とすれば、その間に少なくとも尖閣はとられているだろう。自衛権の中に集団的自衛権の行使も含まれるという法理を無視している。相手の意図を甘くみたチェンバレン英首相の宥和政策がヒトラーをつけ上がらせた。
集団的自衛権はいつでも行使できるぞという意志を早々に見せることこそ抑止力を高めることになる。
国民はそういう国際情勢を感じ、それに相応しい政党に政権を託したはずだ。この期に及んで「憲法改正しろ」というのは、国防や安全保障について何もするなと言っているに等しい。偽善者的言論だ。
公明党は政教分離を標榜して政界に参入してきたのではないか。池田大作名誉会長は「人間革命」の冒頭で反戦平和を訴えているが、お祈りだけでは平和は担保されない。だからこそ政治には政教分離が不可欠なのだ。地方の信者が納得しないなら連立から離脱すべきだ。
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