政府は防衛省設置法改正案に防衛官僚(背広組)と自衛官(制服組)の位置づけを見直す法案を今国会に提出する。防衛官僚と自衛官双方の縦割りを解消して、自衛隊の部隊運営などの効率化を図ることを目的とするものだ。
この記事が出た途端、早速日本のメディアは、またぞろシャドウ・ボクシング的な見出しを掲げて、ありもしない危機を煽りだした。
「制服組、増す影響力 揺らぐ『文官統制』防衛省設置法改正案」(朝日)
「防衛省改革 文民統制を貫けるのか」(毎日)
「防衛省設置法 文官統制の規定廃止 派兵推進の政治家と『軍部』が直結」(赤旗)
「『文官統制』廃止案問題は 制服組暴走の抑止低下」(東京)
政府を批判するのはメディアの役目である。だが、批判するからには、もう少し全般状況を把握し、背景を勉強してからにしてもらいたい。そもそも「文民統制」(シビリアン・コントロール)という言葉はあるが、「文官統制」という言葉はためにするメディアの造語である。
国会での予算審議を垣間見ても、如何に的外れな、そして現実と乖離した議論に貴重な時間を費やしているのかと暗澹たる気分になる。かつて市ヶ谷で、制服組として勤務した者の正直な感想である。
現行の防衛省設置法12条とは以下のとおりである。
(官房長及び局長と幕僚長との関係)
第十二条 官房長及び局長は、その所掌事務に関し、次の事項について防衛大臣を補佐するものとする。
一 陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊又は統合幕僚監部に関する各般の方針及び基本的な実施計画の作成につ
いて防衛大臣の行う統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長又は航空幕僚長(以下「幕僚長」という)に対する指示
二 陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊又は統合幕僚監部に関する事項に関して幕僚長の作成した方針及び基本
的な実施計画について防衛大臣の行う承認
三 陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊又は統合幕僚監部に関し防衛大臣の行う一般的監督
端的に言えば、防衛大臣が統合幕僚長や陸海空の幕僚長を指揮・監督する際、背広組の官房長や局長が防衛大臣を直接補佐する仕組みといえる。このようなシステムを取り入れている軍隊は、共産主義国家の軍隊以外にはない。共産主義国家の軍隊は党の軍隊であり、末端の部隊まで政治将校(文官に相当)が配置され、政治将校の許可なく部隊を動かすことはできない。基本的にはクーデターを恐れるからだ。
日本の場合、旧日本軍が暴走した経験から、「軍による安全」より「軍からの安全」を重視した法体系になっている。自衛隊創設当時は、それこそ「箸の上げ下ろし」まで背広組が関与したと聞く。
朝日新聞は次のように述べる。
「自衛隊の効率化や意思決定の迅速化などを理由に掲げるが、制服組(陸海空の自衛官)の影響力は増大する。背広組(文官の防衛省職員)の影響力低下で、現場の自衛官の暴走が万一にもないのか。チェック態勢の確保に加え、防衛相の責任が一層問われる」
「影響力増大」「暴走」「チェック態勢」などの文言が踊っているが、如何に現状に無知か、認識が実態と乖離しているか。これが日本を代表する新聞かと愕然とする。この記事を見た一般国民は、錯覚して自衛隊を満州事変前夜の帝国陸軍と同一視するに違いない。
現在の自衛官達は戦後の平和教育を徹底して受け、骨の髄まで「国民の自衛隊」が浸透している。この記事のように「影響力増大」をもくろみ、「暴走」しようと思っている制服組など何処にもいない。ありもしない敵を勝手に作り、それにファイティングポーズをとるシャドウ・ボクシングのようなものだ。我々制服組から見ると非常に滑稽でさえある。
過去、国際平和協力活動などでは、ほとんどの場合、むしろ制服組の方が慎重であり、背広組(外務省も含め)の方が「前のめり」であった。筆者はイラク派遣を担当したのではっきり断言できる。現場で死傷者が出るのは自衛官であり、それに責任を持つ制服組が慎重になるのは当然なのだ。
創設当時と大きく変わったのは、国際情勢の変化である。自衛隊の任務は広がり、災害派遣や国際平和維持活動派遣など、背広組だけでは自衛隊を動かせなくなった。また自衛隊活動の透明性も以前に比して、より求められるようになった。
かつては設置法12条の下で「防衛参事官制度」があった。重大事項は防衛参事官という局長級以上の官僚だけで構成する会議で決定していた。陸海空幕僚長、及び統幕議長は参事官会議の正式構成員でもなかったのだ。(参考人のような形で参加はしていたが)これでも10年前くらいまでは、防衛庁は機能していた。訓練以外、実際の行動もそう多くなく、スピーディーな意思決定が求められる時代ではなかったからだ。
だが、自衛隊の任務の広がりを受け、「軍事の素人である『文官』を逐一かませた意思決定で果たして自衛隊は適切に行動できるのか」「国民に責任を負えるのは『文官』ではなく、国民の負託を受けた政治家だ」といった声が上がった。もはや制服の意見をないがしろにして、背広組だけでは適切に対応できなくなったのだ。
当時の石破茂防衛大臣の英断で、この悪名高き「参事官制度」は廃止された。各幕僚長を含めた制服組と背広組が一体となった「防衛会議」で意思決定が行われるようになったのは、防衛省にとって大きな前進だった。
30年前、筆者が初めて六本木(市ヶ谷に移る前の防衛庁)勤務になった時、その非効率性に呆れ、驚いたものだ。ある時、戦闘機が墜落した。事は急を要するにも係わらず、事故速報を防衛庁長官に報告するのに、一番良く分かっている制服組が、防衛長官に直接会って報告することは許されなかった。
12条の規定があるため、制服組は先ず背広組に説明をしなければならない。そして背広組が防衛長官に報告するわけだ。だが、背広組は戦闘機については全く素人である。説明は、戦闘機の構造、飛行原理、つまり「いろは」から始まり、訓練の詳細、事故の推定原因に渡り、事細かく丁寧に説明しなければ理解は得られない。背広組は長官の御下問に備え、あれこれ制服組に追加質問をしてくる。
背広組の報告準備を手伝っているうちに、簡単に2〜3時間は経過し、結果的に防衛長官に対する報告は遅れる。その結果、何故、報告が遅いのだと、制服組がお叱りを受けることになるわけだ。まして素人の背広組が素人の防衛長官に説明するのだから正しく伝わるわけがない。最初から制服組が防衛長官に報告すれば、数分で事足りるものを・・・と硬直した官僚制度にほとほと呆れたことを思い出す。
事故後の飛行再開についても、同様であった。何故、安全に飛行再開が出来るのかを背広組に納得してもらわねば、大臣への飛行再開の上申は上がらない。またもや「いろは」から説明し、背広組に納得してもらわねばならない。だが、飛行再開は、事故速報に比してはるかに技術的、専門的問題であり、文系の背広組に理解してもらうのに骨が折れる。あっという間に数週間が過ぎてしまい、飛行再開準備がとっくに整っている部隊の士気は著しく低下した。
冷戦時における牧歌的な「古きよき時代」だったから通用したのかもしれない。だが、そんな悠長なことは、さすがに今は時代が許さない。事故が発生したら、直ちに制服組が大臣の元に説明に赴き、その場に背広組が同席して報告を聞くように改善されたと聞く。
「各般の方針及び基本的な実施計画の作成」や「指示」についても、統合運用が一元化され、背広組、制服組は一体となって防衛大臣を支えているはずだ。このように設置法12条の規定は業務実態と乖離が進み、既に有名無実となっているのだ。
有名無実だから廃止せず、残しておいても良いのでは、という意見もあるようだ。だが、残す弊害はむしろ大きい。背広組の中には、設置法12条を「背広組の優越」と誤って認識している者も中にはいる。ごく最近でも、某次官などは幕僚長が部屋を訪れても、机の上に投げ出した足を下ろすこともなく、横柄に対応していたという。(直接聞いた話なので間違いはあるまい)こういう誤った「文官統制」が「背広と制服の不信の構造」になっていることも確かなのだ。
これからの安全保障環境は特にスピーディーさが要求される。昨年7月の閣議決定でも、「グレーゾーン対応」について「・・・手続きを経ている間に、不法行為による被害が拡大することのないよう、状況に応じた早期の下令や手続きの迅速化のための方策について具体的に検討することとする」とされた。
冷戦時代のような官僚的で建前が先行する省内手続きでは、今の安全保障環境には、もはや対応できない。今回の一連の防衛省改革は「制服と背広」が渾然一体となって防衛大臣たる「文民」を支え、時代のニーズに応えようというものなのだ。
諸外国の軍と比較すれば、まだまだ制約的である。統合幕僚長の配下に背広組の副長職ポストを置くことが計画されているのもその一つである。共産主義国家のような「文官統制」の仕組みが、なお組み込まれているのだ。諸外国の軍令系統と比較すれば、異様とはいえる。だが、新世代のスマートな背広組も育ってきたことだし、旧日本軍のイメージを引きずっている自衛隊としては、これくらいはやむを得ないのかもしれない。
こういう背景にも係わらず、またぞろ「制服組に都合のいい情報が防衛相に優先的に上がる可能性も排除できない」「軽々に進めていい話ではない」(毎日)となるのは、一体何故なのだろう。ただの勉強不足だけではなく、日本人のマインドに潜在する虚ろなイメージが作用しているに違いない。
秘密保護法案の時もそうだった。これから本格論戦となる集団的自衛権もそうだが、世界中の国がやっていることをやろうとすると、メディアは何故か、日本だけが「暴走する」と絶叫する。
集団的自衛権は、国連加盟国の中で、日本だけが唯一行使が出来ない国である。普通の国に認められているものが、何故、日本に認めてはいけないのだろう。他の国ならいいが、日本なら何故「憲法は葬られ、『ナチスの手口』」「歯止め、きかぬ恐れ」「際限のない軍拡競争につながる」「国家の暴走」「戦争加担の恐れ」「思うがままに武力を使いたい」(以上、朝日新聞)となるのだろう。不思議な国だ。
前防衛大学校長の五百旗頭真氏は、「集団的自衛権」は「自己または他人を守る自然権」のようなもので「世界中の国が行使できる当たり前の権利」である。だからこそ「聡明な外交的判断をもって慎重に行使すべき」であり、「原理主義的に『全否定』すべきにあらず」と述べられている。それなのにメディアは何故、日本政府だけが「聡明な外交的判断」が出来ないと決めつけるのか。
米国のアジア研究学者ベン・セルフ氏は次のように語っている。
「全世界の主権国家がみな保有する権利を日本だけには許してはならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族と暗に断じて、永遠に信頼しないとする偏見だ。差別でもある。日本を国際社会のモンスター、あるいは何時までも鎖に繋いでおかねばならない危険な犬扱いすることになる」
今回の設置法12条改正論議を聞いていてつくづく思う。日本が「国際社会のモンスター」であり、「何時までも鎖に繋いでおかねばならない危険な犬」だと差別しているのは、他でもない日本人自身なのだ。
熱いストーブに乗ってしまった猫は、二度と熱いストーブには乗らない。ただし、冷たいストーブにも乗らないという。そこまで日本人は日本人を信用できないのだろうか。この歪んだマインドは、自分自身に誇りや自信が持てないことに原因があるのだろう。
これにはメディアの責任が大きい。著名なジャーナリストであるウオーター・リップマンは「ステレオタイプを打破することがジャーナリストの役目である」と述べている。だが逆に、日本のメディアは「軍は暴走する」というステレオタイプなイメージに縋って自衛隊を語っているようだ。
戦後日本の平和国家としての歩み、国民主権、民主主義、自由や人権の定着など、世界各国と比較しても、日本人は自信をもって堂々と胸を張れるはずだ。自衛隊は世界一規律の厳格な軍隊である。もっと日本人を信用しても良いのではないだろうか。そろそろ自信をもって「軍からの安全」から「軍による安全」へのマインド転換を図る時期ではないかと思う。
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