現在、安全保障法制を巡る自民党、公明党両党の与党協議が実施されている。本稿が出る頃には法案が提出されているだろう。昨年7月1日、安倍首相は集団的自衛権の限定容認を閣議決定した。閣議決定だけでは自衛隊は動けない。法制化してこそ実効性が生じる。
集団的自衛権については、未だ国民に理解されているとは言いがたい。世論調査によると国民の約30%程度しか理解が得られていないらしい。昨年末の総選挙では、与党は大勝したが、集団的自衛権についてはあえて争点を避けたきらいがある。
我が国を取り巻く情勢は日増しに厳しくなっている。安全保障に待ったはない。政府は、なぜ今集団的自衛権行使が必要なのか、丁寧に説明し、国民の理解を求めていくことが何より重要である。反対する野党も、入り口論に終始するのではなく、この厳しい周辺情勢にあって、どのように我が国の主権を守り、安全を確保していけばいいのか、しっかりと対案を示し、実りある議論を期待したい。
昨年末の総選挙では、自民党は選挙公約で次のように述べていた。「いかなる事態に対しても国民の命と平和な暮らしを守り抜くため、平時から切れ目のない対応を可能とする安全保障法制を速やかに整備する」
他方、野党第一党の民主党は「閣議決定は立憲主義に反するため、撤回を求める。集団的自衛権の行使一般を容認する憲法の解釈変更は許さない」として「入り口論」に終始し、日本の安全保障政策をどうすべきかの言及はなかった。入り口論に拘泥するのは、一旦中身に立ち入れば党内がまとまらない事情があるからだとメディアは伝えている。真偽のほどは不明だが、次の政権を狙う野党としては、入り口で立ち止まることなく、しっかりとした対案を示すべきだろう。
比較的現実的な公約を示した野党もあった。維新の党の場合はこうだ。「集団的自衛権は、自国への攻撃か他国への攻撃かを問わず、わが国の存立が脅かされている場合において、現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化し、必要な法整備を実施する」と。責任政党の矜持が垣間見られる。安全保障に与党も野党もないはずだ。言葉尻をとらえた低劣な議論に終始するのではなく、我が国を取り巻く安全保障環境をどう認識し、日本の安全をどう守っていくかを国民に提示するのは最低限の政党の勤めである。
現代の安全保障環境にあっては、日本の平和と安全は一国では確保できない。近年の中国の急激な軍拡、力による一方的な現状変更の動きは、日本の安全保障に直接影響を与えている。中国は「力の信奉者」である。経済力、軍事力共、米国に次ぐ力をつけた中国の傍若無人な振る舞いは目に余る。その挑戦的行動を抑止できるのは、米国しかない。
中国も最強の軍事力を有する米国とは事を構えることは避けたいと考えている。だが、今や米国でも一国では手に余るのが実情である。最大の問題は、米国が国際問題に関心を失いつつあることだ。昨年、オバマ大統領は「もはや米国は世界の警察官ではない」と繰り返し述べた。その結果がウクライナ問題、中東不安定化を生んでいるといっていい。
アジアの平和と安定には米国の関与は欠かせない。メディアは二言目には米国の戦争に「巻き込まれる」と壊れたレコードのように繰り返すが、時代遅れの発想だ。今問われているのは、尻込みしようとする米国を如何に「巻き込む」かである。米国を「巻き込み」、アジアへの関与を続けさせるには、日本が米国と共に、負担や役割を分かち合うことが必要だ。そのためには集団的自衛権の行使容認は欠かせない。
ロバート・ゲーツ元国防長官は離任の辞で「国防に力を入れる気力も能力もない同盟国を支援するために貴重な資源を割く意欲や忍耐は次第に減退していく」と述べた。
トーケル・パターソン元米国国家安全保障会議部長も次のように述べる。「集団的自衛権を行使できないとして、平和維持の危険な作業を自国領土外では全て多国に押し付けるという日本のあり方では、日米同盟はやがて壊滅の危機に瀕する」
「タダメシ、タダ酒を飲むのが家訓」のような今までのやり方では、やがて日米同盟は崩壊し、日本の安全保障は成り立たなくなる。
現行憲法の範囲内でも、集団的自衛権が行使できる余地があるはずだ。「集団的自衛権」と聞いただけでアレルギー反応を起こして思考停止になるのではなく、今の憲法でどこまで可能なのかを模索すべきだ。
「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告書は次のように述べている。「憲法の規定の文理解釈として導き出され」た結果、「個別的、集団的を問わず『自衛のため』であれば、武力の行使は禁じられていない」と。
元防衛大学校校長の五百旗頭真氏も、集団的自衛権は、「正当防衛」と同様、「急迫不正の侵害に対し自己または他人の権利を守る自然権」であり、「世界中の国が行使できる当たり前の権利」である。だからこそ、「聡明な外交的判断をもって慎重に行使すべき」であり、「原理主義的に全否定すべきにあらず」と述べている。
米海軍が東シナ海で警戒監視任務の最中に、中国海軍と不測事態が生じた場合を想像すればいい。もし日本が「集団的自衛権の行使はできない」と知らんぷりだと、米国世論は一気に「日本を守る義理はない」と傾くだろう。日米同盟空文化であり、「日本は中国に屈するか、自力で軍拡をするしかない」と五百旗頭真氏は警告する。
中国にとって、日米同盟は目の上のたんこぶである。「中国にとって、最良の日米同盟はここぞと云う絶妙の瞬間に機能しないことだ」と中国高官は語る。集団的自衛権行使の法制化が実現しなければ、中国の思う壺なのだ。集団的自衛権行使は「米国とともに『戦争する国』造り」でも、「アメリカの手先になる」ことでもない。我が国の防衛そのものなのだ。
「風雪に耐えた」憲法解釈を変えることは不当だという主張も誤りだ。法律や憲法などは、時代の変遷、情勢、環境の変化によって解釈を変えて適合させていかねばならない。これ以上は無理だと言うところまで解釈を情勢にあわせていくべきなのだ。今回の行使容認は極めて限定的であり、十分その余地の範囲内にある。
過去、憲法9条の解釈変更し、自衛隊を合憲としたのに比べたら、「立憲主義からの逸脱」「憲法の根幹を一内閣の判断で変えるという重大な問題をはらむ」という批判は、ためにする批判にすぎない。
堂々と憲法改正をやって変更すべきと主張する人もいる。こういう人に限って、普段「憲法改正反対」と叫んでいる。憲法改正には時間がかかり、今そこにある危機には対応できない。現在の規定では、仮に過半数の国民が憲法改正に賛成し、衆議院で3分の2以上の国会議員が賛成したとしても、参議院議員の3分の1、つまりたった81名の議員が反対しただけで憲法改正の発議はできない。日本人の手で改正できないよう、GHQによって仕組まれた欠陥憲法なのである。「堂々と憲法改正を」という人こそ、「先ずは96条を改正して憲法を国民のものにしよう」と言うべきだが、決してそれは言わない。
日本の現況は、火事が迫り来る家中で、遊びほうけている子供の状況に等しい。「火宅の人」である国家は亡ぶ。国際社会では、「政争は水際まで」が常識だ。安全保障を政局にしてはならない。我が国を取り巻く情勢をどう認識するのか。そして、その情勢下で我が国の安全と繁栄をどう確保すればいいのか。真剣で本質的な国会論戦を期待したい。
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