かつて重慶市のトップだった薄熙来は、「革命歌を歌い、マフィアを叩く」政策(一部「毛沢東路線」への回帰)で、同市では大変な人気を博していた。
中国では、ケ小平の「改革・開放」によって豊かになった者もいたが、豊かさから取り残され、今もなお貧しいままの者も多い。そのため、「貧しくても、皆、平等だった」毛沢東時代を懐かしむ人が、依然、少なくない。
2007年11月、薄熙来が重慶市へ赴任(正確には“左遷”)して以来、低所得層向けのマンションがたくさん建設された。また、薄は内外の工場を同市へ誘致し、雇用拡大を図った。そして、重慶市には緑が増え、道路が良くなり、同市から他の地方へ行くのも便利になっている。
また薄は、王立軍(TVドラマ「鉄血警魂」のモデル)を重慶市公安のトップに据え、徹底してマフィア叩きを行った。そのため、市民は拍手喝采したのである。
ところが2012年2月、その王立軍が薄熙来に命を奪われそうになり、突如、成都の米国領事館へ逃げ込んだ。薄は王立軍を捕えようと、わざわざ成都まで追いかけた。米領事館は王を匿わなかったので、翌日、王立軍は同館を出て、待ち受けていた中央政府当局により北京まで移送されたのである。
なぜ、薄熙来は王を殺害しようとしたのか。一般には、王立軍が薄の妻 谷開来による英国人ニール・ヘイウッド(薄と谷の息子 薄瓜瓜の家庭教師。薄家の海外へのマネー・ロンダリングを手伝っていたという。またヘイウッドは谷開来の愛人で、英諜報機関MI6と関係があるとも伝えられる)殺害の証拠を掴んだからだという。
更に重大なのは、王が薄熙来らの胡錦濤・習近平に対する「クーデター」計画を知り、それに反対したからだとも言われる。
当時、すでに胡錦濤から習近平への政権移譲は共産党の既定路線だった。だが、一説によれば、江沢民・周永康らが習近平を排して、薄熙来を総書記兼国家主席に担ぎ出そうとしたという(ただ、この件に関して、どこまでが真実かはわからない)。
結局、当時の胡錦濤政権によって、薄熙来は「王立軍事件」を起こした責任を取らされ、重慶市トップと中央政治局委員のポストを奪われた(政治局常務委員になる寸前の失脚である)。その上、薄は党籍も剥奪され、最終的に、司法の手に委ねられることになる。
裁判は、王・谷・薄の順で開かれた。
まず、薄熙来失脚の原因を作った王立軍は、2012年9月、職権乱用・収賄等の容疑で「懲役15年」の判決を受けた。
次に、2013年8月、谷はニール・ヘイウッド殺害容疑で「2年の執行猶予付き死刑判決」(2年間、何事もなく過ごせば、無期懲役へ減刑)を受けた。2011年11月、谷開来は秘書と共謀し、ヘイウッドを重慶市内のホテルで酒に青酸カリを混ぜ、それを飲ませて殺したという。
そして、2013年9月、薄熙来は職権乱用・収賄等の容疑で「無期懲役」の判決を受けた。はじめ、薄は十数年程度の懲役と予想されていた。だが、薄が公判で抵抗したので、「無期懲役」の重い刑になったのである。
これで、「薄熙来事件」は一件落着したと思われた。ところが、最近「事実は小説よりも奇なり」を地で行く新真実が明らかになったのである。
第1に、2013年8月、王立軍を裁いた鐘爾璞・成都市中級人民法院副院長(当時、48歳)が、その判決から1年足らずで、「軍令違反」を理由に罷免されている。鐘はまだ50歳にもなっていなかったので、“定年退職”とは異例である。そのため様々な憶測を呼んだ。
第2に、今年4月1日、薄熙来を裁いた王旭光・山東省済南市中級人民法院常務副院長(その後、最高法院環境資源法廷副法廷長)が瓶に詰めた青酸化合物を飲んで自殺した(享年50歳)。家族が王を発見し救急車を呼んだが、に手遅れだった。王は重度の鬱病を患っていたという。
第3に、今年7月28日、谷開来による「ヘイウッド殺害事件」を取り調べた検察官、満銘安・安徽省合肥市検察院検察長(その後、安徽省合肥市政治協商副主席)が合肥市の家の中で首つり自殺をしたのである(享年60歳)。警察が満の家に来て、すぐに救急車を呼んだが、すでに満は死亡していた。
これら一連の事件が、それぞれ単独で偶然に起きたとは考えにくい。ひょっとすると、薄にシンパシーを持つ「反習近平派」が、習政権に対する“巻き返し工作”―「薄熙来名誉回復運動」―を秘密裏に行った可能性を排除できない。
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