2015年11月20日、胡耀邦生誕100周年を迎えた。胡耀邦元総書記は湖南省瀏陽市西岭鎮生まれの客家人である。
今年、習近平政権は、胡耀邦の生誕を盛大に祝っている。習近平国家主席の父親、習仲勲が胡耀邦と親しい関係にあったからだろう。同様に、胡錦濤前国家主席は、胡耀邦によって出世の道を歩んだ(一時、胡錦濤は「天安門事件」の余波で、チベット自治区へ左遷されている)。だから、多くの「共青団」系党員は胡耀邦への崇敬の念が強いと思われる。
「改革・開放」後、1981年6月に登場した胡耀邦(翌82年9月までは中央委員会主席。その後は総書記)は、経済改革のみならず、政治改革も志した。胡は学生らが求める民主化要求運動を容認したため、1987年1月、「保守派」から攻撃されて失脚する(その際、ケ小平は胡耀邦を守らなかった)。
胡耀邦は総書記失脚後も、依然、政治局には残ったが、何も発言しなかった。しかし、胡は共産党の(特権で私腹を肥やす)腐敗ぶりがどうしても許せなかったのである。
意を決した胡耀邦は、1989年4月8日、教育問題を話し合うための政治局会議(趙紫陽が司会)で、突然、発言を求め、党の腐敗を追及したのである(ただし、当時の腐敗は、今よりもずっと軽微だった)。その時、胡耀邦はあまりに激昂したので、心臓病の発作で倒れた。すぐに病院へ運ばれたが、一週間後の15日に死亡している。
周知のように、この胡耀邦の死こそが1989年の「天安門事件」の引き金になった。胡の死を悼み、多くの市民・学生が人民英雄記念碑へ献花するため、続々と天安門広場へ集まって来た。同時に、民主化要求運動が高まったのである。
けれども、ケ小平や李鵬らが、市民・学生らの民主化要求運動を「動乱」・「暴乱」と決めつけた。そして、同年6月4日、丸腰の市民や学生を人民解放軍の戦車を使って、市民・学生を殺戮した(中国当局の公表している死者数は319人である。だが、公開された米ホワイト・ハウスの秘密資料によれば、死傷者は4万人に達し、死者数は1万454人だったという)。そのため、今もって胡耀邦の“名誉回復”は行われていない。江沢民をはじめ「天安門事件」の“受益者”が大勢いるからである。
さて、習近平政権は、胡耀邦という稀代の指導者を祀り上げる事によって、「反腐敗運動」を“正当化”しようとしているふしがある。しかし、習近平・王岐山(「太子党」)の推し進める「反腐敗運動」は政治改革どころか、まったく正反対だろう。
まず、第1に「反腐敗運動」が恣意的に実行されている。(自らも腐敗している)習近平らの「太子党」が、政敵の「上海閥」や「共青団」をターゲットとしている。だが、「太子党」には、ほとんどメスが入っていない。胡耀邦はクリーンだったが、習近平・王岐山には大きな疑問符が付く。
第2に、習近平政権の本質は毛沢東政治を目指す「左派」(=日本語の右派。保守派)であり、胡耀邦のような「右派」(=日本語の左派リベラル。自由主義者)とは一線を画す。つまり、民主主義に対し一定の理解があった胡耀邦と習近平とは真逆の立場にある。
第3に、2013年4月、習近平政権は「9号文件」を発布し、自由主義・民主主義を抑圧している。また、少数民族(特に、ウイグル族やチベット族など)への弾圧、宗教弾圧(法輪功やキリスト教など)を行っている。これも、胡耀邦の理念とは異なるだろう。
第4に、胡耀邦は「文化大革命」の傷を癒すための政治を行おうとしていた。しかし、習近平は“密告”を奨励し「文革」時代へ逆戻りさせている。すなわち、習政権は、重慶の元トップ、薄熙来が当地で推進した「唱紅打黒」(共産主義革命を称賛し、マフィアを撲滅する)を全国へ拡大しているに過ぎない。
第5に、胡耀邦は「親日派」で、当時の中曽根康弘総理と親密だった。1986年8月、中曽根首相は例年の靖国神社参拝を見送っている。「保守派」から攻撃を受けていた胡耀邦を救うための配慮だった。だが、胡は日本との距離の近さがアダになり、失脚の憂き目に遭った。
一方、習政権は韓国の朴槿恵大統領と歩調を合わせ、「反日」的言動に終始している。2014年1月、習近平は黒竜江省ハルピンに「安重根記念館」を創設した。また、2015年10月、習は韓国・ソウルの城北区に中韓の慰安婦少女像二体を設置している。
結局、習政権は、胡耀邦生誕100周年を単に利用しているだけではないだろうか。
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