今年1月27日、馬英九台湾総統(外省人)が、台北の国際大虐殺記念日の式典で、いわゆる「南京事件」は「ホロコースト」だと発言した。そして、馬総統は日本がその歴史を反省していない、と暗に批判したという。「南京事件」に関しては様々な議論があるので、ここでは論じない。
それよりも、国民党が中国大陸で行った「ホロコースト」(黄河決壊事件)および台湾で行った「ホロコースト」(228事件)について言及しよう。
まず前者だが、日中戦争時、日本軍は幾度となく国民党軍と干戈を交えた。1938年6月、「徐州会戦」の際、国民党は日本軍の進軍をくい止めようとして、黄河・花園口付近で近堤防を決壊させるという“奇策”に打って出た。それが「黄河決壊事件」である。
そのため大洪水となり、数十万人の中国人が犠牲になっている。国民党は自国民をいわば“人間の盾”に使ったのである。戦争中の非常手段とはいえ、一種の「ホロコースト」と言っても過言ではあるまい。大洪水によって、多くの無辜の民が死ぬことは容易に予測できたからである。
その時、何と日本軍が国民党に代わり、一部の中国人を救出している。馬総統は、この事実に眼をつぶろうというのか。
一方、後者の1947年に起きた「228事件」はよく知られている。
第2次大戦で、我が国は敗北した。GHQ最高司令官マッカーサーの指令の下、国民党(中国人)が台湾を接収している。蒋介石は陳儀を台湾の行政長官として当地へ派遣した。
この国民党の台湾統治は、きわめて横暴だった。同党は日本人と台湾人の血と汗の結晶である台湾のあらゆるモノ(公の建物、銀行、会社、工場など)を独占した。そして、その大半を国民党の財産(=党産)としたのである。
また、国民党が政府機関や会社・工場等のトップに就いたので、台湾人は国民党に搾取されるようになった。まさに、「犬(日本人)去りて、豚(中国人)来たる」の惨状だったのである。
このような状況下で、1947年2月27日、闇タバコを売っていた寡婦(林江邁)が官憲に殴打された。それを見ていた台湾人らが、その官憲に抗議した。官憲の1人(傅学通)は台湾人らに発砲したが、運悪く1人の台湾人(陳文渓)を殺してしまったのである。
それに怒った大勢の台湾人らが、翌日、行政長官公署や(タバコ)専売局に対し抗議デモを行った。陳儀は恐怖心から、デモ隊に向かって機関銃を掃射した。そのため、多くの台湾人がその銃弾に倒れている。
その一報を聞き、激怒した台湾人が全土で一斉に蜂起し、ラジオ局等を占拠した。その時、陳儀は台湾人の代表と話し合うと見せかけながら、蒋介石に台湾へ国民党の精鋭部隊派遣を要請している。
まもなく陸軍21師団や憲兵隊が渡台し、彼らは情け容赦なく台湾人の弾圧を開始した。そして、国民党は日本統治下に育った台湾人エリートを逮捕し、裁判なしで闇から闇へと葬った。その数は2万人とも3万人とも言われる。これが国民党による「白色テロ」である。
「228事件」後、国民党は中国大陸で「国共内戦」に敗れた。1949年12月、蒋介石は台北への遷都という形で台湾へ逃げ込んでいる。
馬英九総統はこれらの「ホロコースト」をしっかりと反省しているのだろうか。自分の事に関しては頬被りし、本当に起こったかどうかもわからない「南京事件」で、日本を批判するのはおかしい。
ところで、馬英九本人が米ハーバード大学大学院時代に「職業学生」(=国民党のスパイ)だったことはあまり知られていない。
当時、台湾島内では、「党外」人士(かつて「反国民党」派の人々の呼称)は弾圧されていた。そのため、日米等への台湾人留学生が「台湾独立」運動の担い手であった(ちなみに、本来「台湾独立」とは、中華民国体制からの「独立」であり、決して中華人民共和国からの「独立」ではない)。
馬英九は、ハーバード大時代、台湾から米国へ来た台湾人留学生を見張る役目を担っていた。そして、馬が「台湾独立派」メンバーを国民党へ知らせたため、「台湾独立派」が帰国すると国民党に逮捕されるケースが多々あったという。つまり、馬英九は台湾人を国民党に売っていた過去がある。それさえも、馬は頬被りをしようというのだろうか。面妖である。
|