現在、中国の習近平政権は、“内憂外患”に見舞われている。昨今、「一国二制度」下の香港にも、今までには見られなかった大きな動きが生じた。
2014年3月、台湾では「ひまわり学生運動」(翌4月まで)が起きた。前年、中台間で締結された「サービス貿易協定」の批准に反対して、学生らが一時、立法院(国会)を占拠している。
他方、同年8月末、中国全人代常務委員会による2017年の香港行政長官選挙方法変更に反対して、翌9月、多くの香港人学生らが立ち上がった。いわゆる「雨傘革命」(同年12月まで)である。台湾の「ひまわり学生運動」が香港に多大なる影響を与えたことは間違いないだろう。
その「雨傘革命」に刺激されて、翌15年2月、馬俊焉i23歳)が「香港独立党」を英国ロンドンに設立した。馬はその秘書長である。
原則、香港、米国、EU、スイス、日本のパスポートを所持し、かつ年会費として25ポンド(約4000円)を支払えば、誰でも入党できる(パスポートのコピーを添付して、メールで申請書を送付する)。
この「香港独立党」は、香港の英連邦へ“復帰”を目指している。実際、イングランドの選挙名簿に党として登録された。
馬俊烽ヘ、嶺南大学の陳雲助理教授(55歳。本名 陳雲根。英語名Horace Chin Wan-kan)に影響を受けたという。そして、馬は陳雲の“弟子”を自認している(だが、陳雲は馬俊烽“弟子”だと思っていないようである)。
周知のように、1997年7月、香港は英国から中国へ返還された。「香港独立党」は、英国による“香港回収”を促す。ある意味、“他力本願”の「香港独立」運動である。
一方、今年3月28日、陳浩天(呼びかけ人)が「香港民族党」の結党を宣言した。現在、30〜50人のメンバー(大学生が中心)がいるという。同党は、「民族自強」と「香港独立」を目指している。陳浩天は、かつて香港は英国の植民地だったが、今では中国の“植民地”となっていると主張する。そして、「香港共和国」樹立を標榜している。
いわば「香港民族党」は、“自力本願”での「香港独立」運動である。ただし、現時点では“香港民族”という概念がまだ根付いていないのではないか。
早速、中国共産党は、それらの動きに反発し警戒心を抱いた。そうでなくても習近平政権は一昨年の「雨傘革命」以降、香港に対して神経過敏になっている。とりわけ、今年は「文化大革命」開始50周年(「文革」終結40周年)の節目に当たる。
今後、香港で「独立」運動が起これば、北京政府は対応に苦慮するだろう。習政権が「香港独立」運動に圧力をかければ、たちまち世界中の耳目が集まるからである。
もし香港で大規模な「独立」運動が起きれば、当然、台湾側もその「独立」運動を支援するだろう。台湾人にとっても決して他人事ではない。ひょっとすると、台湾が香港と連帯して、中国共産党政権を揺さぶる可能性も排除できない。
ここで、簡単に香港の歴史をおさらいしておこう。
よく知られているように、香港は3つの地域(@香港島 A九龍半島市街地B新界)で構成されている。香港島と九龍半島市街地は、大英帝国が大清帝国との戦いに勝利して得た領土である。
まず、「第1次アヘン戦争」の結果、英清間で「南京条約」(1842年)が締結され、香港島が清朝から英国に“永久割譲”された。
次に、「第2次アヘン戦争」の結果、英清間で「北京条約」(1860年)が結ばれた。そして、九龍半島市街地が清朝から英国にやはり“永久割譲”された。
ところが、香港の90%以上を占める新界は、英国が清朝と戦って得た領土ではない。日清戦争で清朝は日本に敗れた。それを見た英国が、1898年、弱体化した清朝に対し、新界の99年“租借”を強制したのである(英国としても、さすがに清朝に対し、新界の“永久割譲”を迫ることができなかった)。
1980年代前半サッチャー政権時、英国はこの香港の「1997年問題」に直面した。はじめ、サッチャー首相は香港島と九龍半島市街地を中国へ返還するつもりはなかった。両地域が清朝から英国に“永久割譲”されているからである。
だが、当時、すでに香港は新界を含む3地域の一体化が進み、10%にも満たない面積の香港島と九龍半島市街地だけで「独立」するのは不可能だった。香港3地域が全て清朝から英国への“永久割譲地”だったならば、香港は「独立」のチャンスがあっただろう。結局、サッチャー首相はケ小平に香港全体を返還させられている。
将来、香港が「独立」するのは決して容易ではない。だが、もしも中国大陸に“大変動”があれば、あながち夢物語とは言えないだろう。
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