今からちょうど半世紀前の1966年、中国で「文化大革命」が開始された。そして、1976年9月、毛沢東が死去し、翌10月、江青ら「四人組」の逮捕で「文革」は終結している。したがって、今年は「文革」開始50周年であり、同時に「文革」終結40周年でもある。
今年5月17日、官製メディア『人民日報』と『環球時報』は共に、「文革」は完全な誤りであり、2度と起こしてはならないとの文章を掲載した。これは面妖である。
習近平は総書記・主席就任以来、元重慶市トップ 薄熙来の「重慶モデル」(「唱紅打黒」=革命歌を歌い<社会主義を賛美し>、マフィアを叩く)を採用し、それを全国へ拡大した。
習近平主席は、トラもハエも叩く「反腐敗運動」を展開し、自らに権力を集中させる「毛沢東型皇帝政治」の復活を目指している。
それと並行して、ファースト・レディの彭麗媛は、昨年11月から12月にかけて、「文革」時に流行った革命劇「白毛女」の舞台指導をした。まるで、毛沢東の妻 江青が行っていた事とそっくりである。
さらに習主席は、日本のAKB48を模した「56フラワーズ」(中国のガールズ・グループ)に「革命歌」を歌わせている。つまり習主席は、現在、「第2文革」を推進中と言っても過言ではない。
その最中、共産党の舌であるはずの『人民日報』・『環球時報』が「文革」を間違いだと指摘している。これは“皮肉”以外の何ものでもない。
普通に考えれば、党の宣伝部を掌握している劉雲山(「上海閥」)が、「文革」開始50周年に名を借りて、習主席を批判している公算が大きい。
周知の如く、中国は、1958年から「大躍進」運動を始めた。“英国に追い付け追い越せ”というスローガンの下、農工業の大増産を狙った。だが、「大躍進」は計画倒れとなり、とりわけ食糧生産が滞った。そのため数千万人もの人々が餓死している。四川省一省だけで、約800万人の餓死者が出たと言われる。
毛沢東主席は「大躍進」の失敗の責任を取って、いったん第一線を退いた。その後、劉少奇らが「経済調整政策」を行い、「大躍進」の傷跡を癒していく。
当時、中国共産党内では、“永続革命”を目指す毛沢東と“現実路線”(毛沢東から見れば“修正主義”)を歩む「実権派」との間で深刻な思想的対立が生じていた。
毛沢東は「社会主義教育運動」を開始しようとしたが、劉少奇・ケ小平ら「実権派」に阻止された。そこで、毛沢東は「四人組」を利用し、「実権派」の打倒を目指したのである。
1961年、北京副市長の呉ヨが『北京文芸』に『海瑞罷官』発表した。間もなく、『海瑞罷官』は北京京劇団によって上演された。だが、1965年末、毛沢東は、これは失脚した彭徳懐を暗に讃えた作品だと批判した。
「文革」の“のろし”となったのが、翌66年5月16日、政治局拡大会議で決定した「五一六通達」だった。江青ら「四人組」は『海瑞罷官』を擁護した彭真・北京市長らを批判した。さらに、毛沢東は若い“紅衛兵”を煽って「実権派」を徐々に追い詰めて行った。
結局、1968年、劉少奇は“紅衛兵”らの攻撃を受け、非業の死を遂げた。一方、ケ小平は江西省南昌市で軟禁されている。
1981年、中国共産党は「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」で、「文革」は毛沢東の「指導上の誤り」であった、と結論付けている。
「文革」当時、教育機関は破壊され、機能していなかった。都市知識人・若者達は地方へ「下放」され、慣れない農村暮らしを余儀なくされた。習仲勲を父に持つ習主席も、陝西省延安市へ「下放」されている。
ところで、今年4月24日、李克強首相が2013年4月の「四川地震」の追悼式から戻る際、四川省雅安市内で、危うく自動車事故に遭うところだった。SUV車が、首相専用車に衝突しようとした。だが、SUV車は目的を果たせず、猛スピードで逃げ去ったという。“李首相暗殺未遂事件”である。
最近の中国国内での一連の騒動(ネットに習主席辞任を求める記事が書き込まれたり、故意に習主席を貶めたりする報道)から考えれば、「太子党」の習近平派が「共青団」の李首相を暗殺しようと画策しても、何ら不思議ではない。共産党の一部には、習主席を排し、李首相をトップに担ぎ出そうという動きが存在するからである。
中国経済が瀕死の状態の中、党内の権力闘争はますます熾烈を極めている。
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