周知のように、1989年、中国では「6・4天安門事件」が起きた。すでに失脚していた胡耀邦総書記が、共産党の腐敗を追及して憤死したのが、その契機である。学生や市民が中国共産党に対し民主化を求めた。
だが、共産党は人民解放軍を使って、丸腰の人々に対し、銃や装甲車で武力弾圧を行なった。米国側の資料では、学生・市民1万人以上が虐殺されたという。ちなみに、「天安門事件」で、当時の趙紫陽総書記は失脚し、軟禁状態で生涯を終えている。
その2年後の1991年、自由や民主主義を謳う『炎黄春秋』という雑誌が誕生した。リベラルな穏健派の長老達(老幹部・老軍人・学者専門家)がその支持者だった。
元来、『炎黄春秋』は政治改革を目指した。同誌は、胡耀邦・趙紫陽の遺志を継いでいる。2001年、習近平主席の父親、習仲勲も『炎黄春秋』を称賛した。
ただし、(1)「天安門事件」、(2)三権分立、(3)解放軍の国軍化、(4)法輪功、(5)現国家リーダー、(6)リーダーの家族、(7)民族問題、(8)外交問題等はタブーだった。
実は、江沢民時代、江主席は『炎黄春秋』に対して不満を抱いていた。だが、長老達の影響力が強く、同誌は停刊に追い込まれることはなかったのである。
次の胡錦涛時代、同誌は特に問題視されなかった。独裁的な中国共産党統治下にあって、このリベラル系雑誌の果たした役割は決して小さくなかった。
けれども、かねてより習近平主席は、このリベラル系雑誌がお気に召さなかったようである。そこで、編集方針を変更させようとした。
以前、『炎黄春秋』は、胡耀邦元総書記の長男、胡徳平が社長で、陸定一(元人民協商会議副主席)の息子、陸徳任が常務副社長兼法人代表を務めていた。その後、胡徳平の弟、胡徳華が副社長となっている。
胡耀邦と習近平の家族は、はじめ親しかった。中国共産党第18回全国代表大会(18大)の際、胡徳平は「反江沢民派」の立場から習近平を支援した。
ところが、段々と習近平が「左傾化」(日本語と中国語は逆で、日本語の「右傾化」に相当)するに従い、胡徳平と胡徳華は声を潜めた。
2014年9月、『炎黄春秋』雑誌社は、突如、中華炎黃文化研究会から中国文化部(文化省)傘下の中国芸術研究院所属となった。政府の権力機関が編集に介入し始めたのである。徐々に『炎黄春秋』の独立性が保てなくなってきた。
そして、今年(2016年)7月13日、ついに杜導正社長(93歳)、胡徳華副社長、徐慶編集長編集長らが更迭させられた。そして、中国芸術研究院から社長と編集長が『炎黄春秋』へ送り込まれている。実質的な『炎黄春秋』の終焉である。
翌14日、同雑誌社は、中国芸術研究院と交わした協定が破られたとして、北京地裁に民事提訴した。さらに、3日後の17日、杜導正社長が『炎黄春秋』の停刊を宣言している。
しかし、北京地裁は、同雑誌社の訴えを正式に受理していない。また、同社の新しい訴えもうやむやにしている。
翌8月3日、驚くべきことに、新体制の下で『炎黄春秋』(2016年第8期)が発刊された。習近平主席の好む毛沢東を賛美する「左派」(日本語の「右派」)らが執筆したのである。
翌4日、元の『炎黄春秋』関係者(48人の顧問と編集部)は、「同誌の停刊はしたが、同雑誌社を閉じたわけではない」とし、中国芸術学院が同誌の名前を盗用したとの声明を発表した。
元編集長の杜導正は、今や「文化大革命」の最中にいると述べた。結局、習近平主席は、『炎黄春秋』を共産党称揚の宣伝媒体へと貶めたのである。
最近、中国軍事学院出版社の元社長、辛子陵は、ラジオ・オーストラリア(ABC Radio Australia)とのインタビューで、中央宣伝部(江沢民の「上海閥」)が習主席の名誉を傷つけようとして、『炎黄春秋』を抑圧したと答えている。その可能性も捨て切れないが、普通に考えれば、習主席による指示の公算が大きい。
習主席の父親、習仲勲が称賛したリベラル系雑誌を、その息子が圧殺した。これ以上の皮肉はあるまい。そのため、習主席は、習仲勲の息子ではなく、毛沢東主席の孫だと揶揄されている。
今回の『炎黄春秋』の人事刷新は、習近平主席の“独裁政治”への一里塚となるかもしれない。
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