今年8月26日夕方、甘粛省康楽県景古鎮から多く離れた深い山あいの村で、悲惨な事件が起きた。
28歳の母親、楊改蘭が、8歳の長女、5歳の双子の姉弟、3歳の三女を道連れに無理心中したのである。
夏、楊改蘭の子供達は、服をほとんど着ていなかった。冬、オンドルが暖かくないので、子供達は寒さに震えていた。長女は、新学期が始まる直前、新しい靴を欲しがった。しかし、楊家は極貧のため、長女に靴を買ってあげる余裕はなかったのである。
家は3部屋あるのだが、いずれも今にも崩れ落ちそうな家屋だった。そして、楊改蘭と4人の子供達のスペースは、たったの10平方メートル(約3坪、畳4枚分)しかなかった。
楊家の財産と言えば、十数畒(約1ヘクタール)の耕地と耕牛3頭、それに廃品のような車両4台だった。
楊改蘭一家は、甘粛省の最貧困地区にあり、阿姑山村には20戸余り存在したが、楊家が1番貧しかったという。
事件当日、温和で明るく善良な楊改蘭は、他村からの婿養子である夫の李克英を送り出した後、まず子供達4人に毒薬を飲ませた。
5歳の姉弟と3歳の末娘は、すぐに毒薬を飲んだ。だが、8歳の長女は毒薬を飲むのを嫌がり、飲まなかった。
そこで、楊改蘭は斧で、長女の後頭部を殴打した後、無理やり、毒薬を飲ませた(ただし、他の3人の子供達に頭にも、打撲痕があったという)。その後、楊改蘭は自らも毒薬を飲み込んだ。
まもなく近所の人達が隣家のただならぬ気配に気付き、楊家へ行ってみた。楊改蘭と長女・長男はまだ生きていたので、とりあえず親戚の家まで連れて行かれた。だが、長男は、担架で搬送途中に死亡している。
楊改蘭と長女は救急車で、まず景古鎮病院へ、次に康楽県人民病院へ運ばれた。長女は、その病院で手当てを受けたが、まもなく死亡が確認された。
翌27日、夫の李克英は、景古鎮のアルバイト先から電話で呼び戻された。
最終的に、楊改蘭は、蘭州大学第二付属病院へと運ばれた。だが、29日午前1時頃に亡くなっている。
父親の楊満堂と夫の李克英が相談した結果、死亡当日、楊改蘭は蘭州で火葬され、遺灰は河に撒かれた。
楊改蘭は息絶え絶えになりながらも、周りの人達に「子供達を1人でも残しては死ねない」と語ったという。
李は妻と子供達の葬式を済ませた後、翌9月2日、李克英は家を出て行った。2日後、李は自宅からあまり遠くない林の中で、除草剤を飲んで死んでいた(警察によって発見されている)。
残されたのは、52歳の楊改蘭の父親(楊満堂)と70歳の楊改蘭の祖母(楊蘭芳)である。
楊満堂は、一日中、牛(1頭が成牛、他の2頭は幼牛)を放牧して過ごしていた。だが、楊満堂には、ほとんど稼ぎがなかった。他方、楊改蘭の母親は、改蘭が10歳頃、別の男性と一緒に家を出て行っている。
楊改蘭は、18歳頃、独り言を言うようになったという。しかし、楊が精神病だった形跡は見当たらない。
さて、この一家心中事件の核心は、「精準扶貧」(貧困状況は地方や世帯ごとによって異なるので、各実情に合った支援を行う)にあるのではないだろうか。
2013年11月、習近平政権は「精準扶貧」方針を打ち出した。そのため、市・県・村の行政機関が誰に援助を与えるかという権限が拡大している。
実は、楊改蘭一家は、ここ2年間、最低生活保障金がカットされていた。この最低生活保障金は、楊家の主な収入源だった。その件について、楊改蘭は不満を漏らしていたという。
楊家へのカット理由として、(1)楊家には耕牛3頭がいた、(2)当時の「一人っ子政策」を無視して、楊改蘭には子供が4人もいた、(3)夫の李克英が石磊村からの婿養子である入り婿だったので、村の当局から軽く見られていた、等が考えられる。
村の幹部が語った話では、どの家が困窮しているのが、投票や話し合いで決めたという。付き合いが良く友人が多い場合、最低生活保障金を獲得しやすい。
けれども、楊改蘭一家のように、本当に貧しくても、村人との付き合いがあまりなければ、最低生活保障金がもらえない。これが、楊改蘭一家心中事件の悲劇を生んだとも言える。
このような状況にありながら、習近平政権は今年9月4・5日、G20杭州サミットで2000億元(約3兆円)も使った。そのため、習近平主席は、ネットユーザーらから「慶豊帝」と揶揄されている。
以前、習主席は、自分が庶民と同じだとアピールするため、お忍びで北京市西城区月壇北街の慶豊餃子店へ行ったことがある。それがあだ名の由来となっているらしい。
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