金正恩の体調不良説
韓国国家情報院は4月6日、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の体調不良説について「金正恩氏が心臓関連の施術や手術を受けたことはない」と国会情報委員会に報告した。既に金正恩は、20日間の沈黙を破って5月2日に公の場に姿を現し、重体説・死亡説を覆していた。これで金正恩の重体説・死亡説に一応の決着がついた形となったが、今後も金正恩の体調については、世界各国の重大な関心事となるだろう。
金正恩の体調不良説が最初に発信されたのは2つの報道だ。まず、韓国の北朝鮮専門ニュースサイト「デイリーNK」が4月20日、「金委員長が4月12日に北朝鮮西北部・平安北道の病院で心血管疾患の手術を受けた。平壌から医師が大挙派遣されたが、術後の経過がよいので多くの医師が平壌に戻った」と報じた。次にアメリカのCNNが4月21日、「金委員長が重大な危険に陥っているという情報がある」と報じた。さらに、「中国から医師団が派遣された」との報道が流れ、情報の信ぴょう性が高まったことで各国政府・メディアが大騒ぎとなった。
金正恩の体調については、以前から何度かメディアで取り上げられてきた。その背景には、「祖父・金日成、父・金正日とともに心臓疾患の遺伝がある」「何度も暗殺未遂事件が起きたことで精神的にかなり疲労困憊していた」「2013年に伯父の張成沢(チャン・ソンテク、当時、国防委員会副委員長)を国家転覆罪で処刑して以来、深酒に溺れて体調を崩していた」などの見方があった。
一方、こうした金正恩に関する一連の報道に対して、韓国政府は「北朝鮮で特異な兆候は見られない」と一貫して否定してきた。この韓国政府の判断には、国家情報院が大きく貢献している。国家情報院は、1961年 に朴正煕大統領により「国家安全企画部」として創設されたが、金大中拉致事件(1973年)、朴正煕暗殺事件(1979年)などの重大事件を引き起こしたことで、金大中政権時代には大幅縮小となり、「国家情報院」と名称変更されて大統領直轄下に置かれた。国家情報院は、縮小されたものの、今でも北朝鮮に対する情報収集に関しては優秀な情報能力を保持している。国家情報院の主な手段として挙げられるのは、ヒューミント(人的情報)、シギント(通信、電磁波、信号等の傍受情報)、オシント(報道などの公開情報)、そして友好国との情報交換であるが、特にヒューミントでは、同じ朝鮮民族という強みを活かし、脱北者や中国・ロシアの朝鮮族を介した広範な情報活動を展開している。最近では、2015年に北朝鮮当局にスパイ容疑で逮捕された韓国系米国人キム・ドンチョル氏(67歳)が2019年に解放後、米国CIAと韓国国家情報院のために働いていたと告白しており、北朝鮮に対する情報活動の一端がうかがえる。
情報分析の困難さ
本来、情報というものは、不可視性、無形性、可変性、秘匿性、多義性という特徴を持ち、虚偽か真実か判断できないということがよく起こる。最近はITの急激な発展によって個人が自由に情報を発信できるようになったため、根拠の曖昧な情報やデマが大量に出回るようになって、一層、情報分析が複雑化した。
ましてや北朝鮮は非常に厳しい情報統制下にある。こうした国において、正確な情報の把握が困難なことは言うまでもない。さらに難しくさせているのは、北朝鮮や中国、ロシアのような独裁国家では、今回のような指導者に関する虚偽情報をわざとリークすることがあることだ。なぜ、このような虚偽情報を流すのかというと、「普段は隠れている政敵をあぶり出す」「敵対国がどう動くのかを確かめる」「敵対国の情報分析の能力を探る」「流した虚偽情報の経路を確認してスパイを暴露する」などのためである。
専門家といえども、こうした国に対して正確な情報分析を行うことは至難の業であり、しばしば誤った情報判断が行われることがある。
専門家が陥る罠
専門家になればなるほど、特有の罠に陥ることがある。専門家は取り出しやすい記憶情報を優先的に頼って判断し、記憶に残っているものほど、頻度や確率を高く見積もる傾向がある。探せる記憶だけが事実となり、自分の記憶から簡単に呼び出すことができる情報に頼る。これを利用可能性ヒューリスティック(Availability Heuristic)と言う。
これは、処理する情報が多すぎる場合、人間の脳は、最短で最も効果が高いものに行き着く方法を過去の経験や記憶から判断し、行き着いた情報を優先的に正しいとする思考のショートカットを行うからである。その結果、素早い判断はできるが、得てして一定の偏り(バイアス、思い込み)がかかってしまう。例えば、1991年に旧ソ連が崩壊した際、「ソ連は崩壊する」と予測した専門家はほとんどいなかった。それは「あれほど強固なソ連が崩壊するわけがない」との思い込みが生んだ誤った情報分析の典型的な例である。今回の金正恩の体調不良説も、「こうあって欲しい」「こうなるべきだ」「この方が話題性がある」という専門家の思い込みと願望が大きく作用している。
日本は、北朝鮮、中国、ロシアなどの強国に周囲を囲まれている国である。近代において、日本がこれらの国と日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争など国家の存亡をかけた戦いを行ったことを考えれば、周辺諸国を中心とした正確な情報分析が必要不可欠なことは明らかである。それにもかかわらず、日本には、情報分析の専門家を育てる組織がほとんどなく、専門家も少ない。世界が混迷の時代に向かっている今こそ、正確な情報収集と情報分析に長けたインテリジェンス機関と人材養成は、日本の進むべき道を照らす強い光となるはずである。