日本での「戦争反対」論の欠陥

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顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 日本でのウクライナ戦争への反応で目立つのは「戦争反対」の声である。当然ではあろう。だが村上春樹というような著名な作家までが「ウクライナでの戦争に反対!」と主張する活動を展開する。だがこの「戦争反対」というスローガンには重大な欠陥がある。
 日本での「戦争反対」の源流をたどれば、日本国憲法にまでぶつかるだろう。憲法9条は日本に対して戦争を禁じ、交戦権を否定し、戦力の保持をも禁止するからだ。
 だから国として、国民として、とにかく戦うことは一切、禁止というのが日本国憲法の真髄ということになる。
 この「戦争反対」の概念には「平和」という言葉が一体となって、からんでいる。平和のために戦争を止める、その平和こそ人類、あるいは人間にとって最高至上のあり方なのだ、というわけである。
 いまの日本で作家の村上春樹氏のような人たちはそんな日本の基準をウクライナにも当てはめ、「戦争反対」を叫ぶのだろう。
 だが、ちょっと待て、である。
 ウクライナに対して、「戦争反対」、つまり戦うことを止めろと、号令をかければ、自国の防衛に命を賭けるウクライナの国民、あるいは軍人に対して、ロシアへの抵抗をもう止めろ、と命じることに等しくなる。
 本来、いまの世界がウクライナ情勢に関して反対しているのは戦争自体ではなく、ロシアの侵略なのである。まず起こるべき声は「侵略反対」なのだ。その侵略に対して、日本流に「戦争はよくないから」と非戦を実行すれば、すべては戦争をためらわないロシアの意図どおりになってしまう。
 ウクライナ側が戦いを止めれば、ウクライナという国家が失われてしまう。国民の自由や独立、自主性、主体性、そして国家としての主権もなくしてしまう。戦争さえなければ、それでもよいのか。無抵抗、そして全面降伏となる戦いの停止を求めることは、当事者からすれば、あまりに無責任なのだ。
 ウクライナの国家も国民もロシアの侵略に直面して、戦ってその侵略を防ぐという道を選んだことは明白である。なのに遠い日本にいて、戦いを止めろ、と声をかける。あまりに無責任な言動だといえよう。責任のある言葉をロシア側に浴びせるならば、それは「侵略を止めろ」ということになる。
 ここらあたりで日本の戦後の「戦争反対論」や「平和主義」を再考し、破棄すべきだろう。なぜなら日本の「戦争反対」や「平和を」という主張はすべての戦いを否定するという立場に立脚しているからだ。
 だが国家にしても、人間の集団や個人にしても、生存していくうえで、その生存自体への危機や脅威とも戦ってはいけないとなれば、あとは死、つまり生物としての絶滅を意味するだけとなる。
 国家を個人に置き換えて、考えてみよう。
 人間が自分を守るために戦う。これは国ならば個別の自衛権の発動だろう。
 人間が愛する他者を守るために戦う。これは国ならば集団的自衛権の発動となる。
 人間はさらに正義を守るためにも戦う。これが同盟の考え方であり、国連の平和維持活動の実践だろう。
 しかし日本の憲法9条を文字どおりに読むと、上記のいずれの戦いも禁じているように解釈できるのだ。これは無理もない。日本国憲法がその目的のために作られたからだ。
 私は日本国憲法の草案を1946年2月に書いたアメリカ占領軍司令部のチャールズ・ケーディス大佐(当時)に長時間、インタビューしたことがある。そんな体験を有する日本国民もいまでは数が少なくなった。
 そのインタビューでケーディス氏は新憲法の最大の目的が「日本を永遠に非武装しておくことだった」と明言した。上司からの原案では日本は自国の防衛の権利も持たないことを規定するという一項があったが、それでは戦後の日本は独立国家たりえないと判断して、同氏の一存でその条項は入れなかったという。
 憲法の前文をみてもそんな意図は明白である。
 「日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」というのだ。諸国民は平和を愛し、公正と信義を保つから、日本にとっても、他の諸国にとっても脅威や侵略はない、という前提である。戦う必要がない、というわけだ。
 だがこんな認識が空想に過ぎず、世界の現実には戦って守るしかないという状況がいくらでもあることは、あまりに明白だといえる。
 要するにいまの日本の憲法は日本という国家を戦う能力も意思も持たない人間集団にするために作られたのである。アメリカ側が強大な軍事国家としての日本の再現を恐れたからだった。そのアメリカの意図は戦後の日本でみごとに花を咲かせた。
 だがいまやウクライナに戦わなければ滅亡する、という現実の状況が出現し、日本はそれでもなお「戦うな」と叫ぶのか。よく考えてほしい。