「いまの世間の『やっぱり安倍さんだ』という声を無視はできないでしょう」
私がこんな言葉を向けると、安倍晋三元首相はニヤリと笑った。それまで1時間半ほど憲法改正や日米同盟の強化という堅いテーマを論じてきたインタビューの最後のくつろいだ一瞬だった。私の述べた言葉はもちろん総理としての安倍晋三復帰待望論を意味していた。
「いまは岸田政権を支えていく、これに尽きます」
安倍氏は笑みをさらに崩して、いたずらっぽい語調でこんな答えを発したのだった。安倍氏が暗殺されるほんの2ヵ月ほど前、4月末のことだった。
安倍晋三氏の突然の死は日本の国家や国民にとって測り知れない損失である。彼の貴重な指針やリーダーシップ、そして実行力が突然、喪失したのだ。と同時に長年の交流があった個人としての私はどうしてもこのごく最近の語り合いを思い出してしまうのだ。
安倍氏は2022年はじめにこの日本戦略研究フォーラムの最高顧問に就任した。それを記念して当フォーラム会長の屋山太郎氏が安倍氏との意見交換をして、その内容をメディアに発表することになっていた。ところが屋山会長が突然、体調を崩し、私が僭越ながら当フォーラム顧問として代理を務めることになったのである。
私も安倍晋三氏との知己は長かった。なにしろ初めて出会ったのは、安倍氏が父の安倍晋太郎外務大臣の秘書官とし外務省に入ってきたときだった。このとき私は毎日新聞政治部の記者として外務省を担当していた。安倍氏は今回の対談でも40年も前の私との接触もよく覚えていて、エピソードを交えながら懐かしげに語るのに恐縮してしまった。
以来、私はその後すぐに国会議員となった安倍氏を主としてワシントン、ロンドン、北京という地から考察してきた。外国の駐在地から一時帰国するたびに連絡をとりあって、取材を兼ねた懇談をした。安倍氏は当時では珍しい国際情勢のなかでの日本を正面から論ずる若手政治家だった。ワシントンや北京から短期間もどった私を国会の会期中でも議事堂地下の粗末な食堂へ招いてくれて、世界の情勢と日本とを語りあった。
そんな安倍晋三氏が国政の階段を着実に、しかもスピードを増しながら昇っていくのを私は期待をこめて考察していた。安倍氏は日本を普通の国にすることを目指していた。主権国家としての自らを守るという国家安全保障面で自分の手足を縛りつけている半国家の日本を民主主義の正常な国にするという志向だった。
この志向は保守でもナショナリズムでもない。もちろん軍国主義でもない。日本を他の諸国と同様のバランスのとれた独立国家にするという目標への自然な動きだった。近年の日本は経済の繁栄、社会福祉の保障、国内の秩序、安全、さらになによりも国民の民主主義的な自由と権利などが保証された立派な国である。ただし自国の安全保障という基本の枠組みについてだけは大きな欠陥がある。
アメリカ占領軍が書いた憲法により自国の防衛も、他国との防衛のための連帯もふつうにはできない呪縛を自身に課したままなのだ。そのきつい呪縛を除き、大きな空白を埋め、バランスのとれた正常な国にする。この目標が安倍氏の念願であることは明白だった。
安倍氏は2006年9月に戦後では最も若い日本の総理大臣になった。その当時の安倍氏に対しては日本でもアメリカでも根拠のない非難や誹謗が激しかった。慰安婦問題のような歴史課題もからんで、安倍氏には「右翼」「タカ派」「ナショナリスト」というような負のレッテルが貼りつけられることが多かった。日本の朝日新聞が象徴する左翼の政治活動家、学者が野党の一部と連帯しての「安倍叩き」だった。
この安倍叩きはアメリカ側でも左派の日本研究学者や一部のリベラル・メディアが同調していた。そのなかには安倍氏を「軍国主義者」とか「歴史修正主義者」「戦前への復帰主義者」などと断ずる、おどろおどろした誹謗もあった。安倍晋三氏の悪魔化とも呼べるデマゴーグ的な悪口雑言だった。
自分たちが嫌い、憎む対象を現実とは異なる悪の存在に重ねあわせて叩くのが、この悪魔化である。この種の安倍叩きは日本でもアメリカでも、日本が正常な民主主義国として自主自立の道を歩むことへの反対に由来していたといえる。
そんな時期にワシントン駐在の産経新聞特派員だった私にアメリカの大手紙のニューヨーク・タイムズから安倍新首相についての記事を書くという寄稿の依頼があった。この要請は当初は意外に思えた。なぜならそのニューヨーク・タイムズこそがアメリカ側での安倍叩きの主要舞台だったからだ。
ニューヨーク・タイムズはそのころ戦時中の慰安婦問題でもいまの日本政府を一方的に悪とするキャンペーンを展開していた。社説や一般記事でも安倍晋三氏が日本の戦後レジームを変えようとする動きをあたかも戦前の軍国主義への復帰のように非難していた。
だが私に寄稿を依頼してきた同紙の寄稿ページの編集長にいろいろ聞いてみると、安倍氏をこれまで非難し、批判する一方だったと認め、その結果、生じた不均衡を埋めるために、安倍氏の実像をよく知っている側の意見を載せたいのだ、という趣旨の答えが返ってきた。
その結果、私が書いた一文は安倍首相の就任後まもない2006年9月30日のニューヨーク・タイムズの寄稿ページにトップ記事という形で大きく掲載された。「だれがシンゾー・アベを恐れるのか」という見出しとなった。
私はその記事のなかで安倍氏がそもそも戦後の民主主義の土壌で育ち、アメリカの民主主義にも共鳴して、日米同盟の堅持を唱えてきた経緯を説明した。歴史問題での安倍氏の主張は反日勢力の誹謗への事実に立脚する反論なのだとも説いた。さらに安倍氏の「戦後の総決算」的な主張は日本を普通の独立国家にするためのごく平均的な主張なのだと強調した。
この記事はアメリカ側でもかなり広範に読まれ、引用された。そしてなによりも安倍氏のそれ以後の言動はまさに民主主義を信奉してのアメリカとの協調路線を進み、歴史問題では真実をためらわずに主張する、という軌道をまっすぐに歩んだといえる。
安倍氏がこの2006年の第一次政権では短命な統治に終わったものの2012年にはまた総理大臣となり、2020年まで記録破りの長期の政権担当となった。この間にアメリカをはじめとする安倍氏への国際的な評価が上昇の一途をたどったのは周知のとおりである。
とくに同盟相手のアメリカでは民間の学界もメディアも、政界も官界も、安倍氏を軍国主義者だなどとみなす向きは皆無となってしまった。逆に民主主義の国際的な旗手として声援や賞賛を浴びせる対象となった。この大きな変化はまさに安倍氏自身の体現した民主主義の価値観、そして祖国の日本への愛、不正や専制に対抗する毅然とした挙措こそが勝ち取った実績だったといえる。
思えば近年の日本は安倍晋三氏の貢献で民主主義を成熟させ、主権国家としての主権を確立し、日本のよき伝統や文化を復活させ、国際的な存在感をも強めた、と実感する。この点ではつい、「ありがとう、安倍晋三さん!」と語りかけたくなってしまう。