屋山太郎会長を悼む

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顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 日本戦略研究フォーラムの屋山太郎会長が亡くなった。巨大な損失、喪失である。
   当フォーラムの屋山会長の下で顧問の一員として何年も日本の安全保障という課題に取り組むという貴重な体験から、私自身が実感した屋山会長の輝かしい成果について、感想を述べさせていただくことにした。さらに私には偉大な言論人だった屋山さんから何十年もの間、後輩として教示を得てきた、かけがえのない体験がある。だから惜別の思いはことさら強く深いのだ。
   屋山さんが会長となった2017年4月からちょうど7年間の日本戦略研究フォーラムの躍進は目ざましかった。長野俊郎常務理事、長野禮子理事兼事務局長の堅実に時代を読む日ごろの運営が基礎だったとはいえ、屋山会長がさらなる大所高所からのビジョンを当フォーラムの歩みに加え、日本社会での当フォーラムの存在をより顕著にした実績は巨大だったと思う。
  多数のすぐれた専門家が集まる当組織では各自の出身母体や実体験の相違から意見の異なる場合も多かったのは自然であり、健全でさえあった。だがその種の背景やしがらみがなく、独自の言論で日本のあり方を長年、論じてきた屋山会長の毅然たる重みは、フォーラム全体の団結と存在を一段と強めたといえるだろう。
   私自身はワシントンでの報道活動の間に東京に定期に戻るというパターンのために、フォーラムの活動を終始一貫、考察することはできなかった。だがそれでも東京では最大限にその活動に加わり、屋山会長、長野夫妻との計画や立案を論じる場にも加えていただくことがかなりあった。その討議のプロセスでも屋山会長はここまでは是であり、その先は非という根幹の判断を下してくれたと思う。
   結果として当フォーラムは台湾有事の日本発の本格的なシミュレーションで幅広い注視を浴びた。日本国として考えざるをえないのに、いざとなると誰も手を出さないという模擬演習を大々的に実施した。この種の安全保障、軍事、危機というテーマにはネガティブな大手メディアまでがいっせいに当フォーラムのこの行事を大きく報道した。
   安倍晋三氏を当フォーラムの最高顧問に迎えることでも、屋山会長の努力は大きかったと思う。
   屋山さんはなにしろ安倍家とは晋三氏の父の晋太郎氏の時代からの親交があった。晋三氏の信頼も大だった。そして晋三氏は単に名義だけの最高顧問ではなく、フォーラムの政策形成や調査研究の実態にまで真剣に参画してくれたのだ。暗殺という悲劇までの短期間とはいえ、彼の参画はフルだったといえる。
 この二つの出来事が象徴するようにフォーラムはこの数年、世間に広く知られ、その政策や意見の表明は重く受けとめられるようになった。明らかに屋山会長のリーダーシップによる発展だったと思う。
 私自身が屋山さんの指導力を直接に実感した具体的な実例では、2019年ごろだったか、日本の政界、官界の一部には中国の習近平国家主席を国賓として招く、あるいは中国側のその要望を受け入れるという動きがあった。当フォーラム会員の大多数は明確に反対だった。屋山さんはその当フォーラム有志を代表する形で当時の安倍首相に申し入れに出かけた。
   長野禮子事務局長の事前の周到な準備もあって、首相官邸では当時の総理側近でいまの防衛大臣の木原稔氏が丁重に応じてくれた。フォーラム有志からの習主席招請への反対の書簡を渡し、屋山会長が改めて反対の理由を説明した。私も末席にいて、屋山さんのこうした場でのどっしりとした存在感に改めて畏敬の念を覚えた。
 第二には安倍晋三氏が最高顧問に就任したことを記念して、日本戦略研究フォーラムとして屋山会長が改めて安倍氏に日本の安全保障などについての見解を聞くという企画だった。2022年春、安倍氏が暗殺される2ヵ月ほど前、屋山会長が安倍氏と直接に語りあい、その全容を雑誌の  「月刊正論」に掲載するという趣旨だった。
 ところがその期日の直前になり、屋山さんの病状が悪化してしまった。長時間の語りあいはどうしても無理ということになり、その代役をおこがましくも私が務めることになった。しかし屋山さんは安倍氏にこの点だけは必ず質問してくれと強調して、いくつかのテーマをきちんと私に伝えてきた。だからこの会見はあくまで当フォーラムと安倍晋三元首相との意見の交換だった。そしてその長文の記事は安倍氏の最後の政策表明の集大成ともなった。
 
 屋山太郎さんの当フォーラムでの活動と発信の根源は「よりよい日本」の実現への熱意だったと思う。長年の言論人としての目標も同じだったといえよう。もちろんわが日本をいまよりもよい国に、という表現は曖昧である。だが安全保障に関しては、戦後の日本のアメリカ製押しつけ憲法での自国の防衛への自縄自縛をなくし、世界の他の主権国家と同様の「普通の国」にするという趣旨だろう。屋山さんもそうした主張を年来、表明してきた。
 屋山さんは私個人にとって、言論の世界でのかけがえのない師だった。1970年代から彼は時事通信の現役政治記者をしながら、総合雑誌などに、すぐれた分析や鋭い主張を基盤とする長文の論文を頻繁に発表していた。模範としたくなる言論活動だった。彼の日本政治への思考の基盤には豊かな国際性の裏打ちがあった。イタリアとスイスでそれぞれ数年、駐在特派員を務め、欧州の政治を現地で考察した体験の集大成だったといえよう。
 いまもよく覚えているが、1982年、屋山さんは当時、毎日新聞の記者だった私に声をかけてくれた。私がベトナムとアメリカと、ほぼ10年にわたる特派員生活を終えて東京に戻った時期だった。
   東京では毎日新聞の政治部記者となり、内政にも真剣な関心を向け始めたときに屋山さんとの知己を得ることは貴重だった。
 初めての会合では話しがはずみ、4時間以上があっというまに流れたこともよく覚えている。もっぱら私が聞き役だったが、日本のジャーナリズムの世界にもこんな記者がいるのかと、驚嘆し賞賛を感じたことも忘れられない。それ以後の40年余り、おつきあいをさせていただき、いつも多くを学ばせていただいた。彼がここ数年は重病と戦いながらも、言論活動を続けていたことも驚きだった。とくに長年の盟友の田久保忠衛氏を悼む一文を屋山さんは文字どおりの病床でみずからペンを執り、書いた。胸に響く内容の弔文だった。屋山さんご自身、そのまさに直後に旅立たれたのである。
 人間としての屋山さんは名誉欲とか、私利私欲とはおよそ縁の遠くみえる人物だった。竹を割ったような剛直、剛毅の言論人だった。そして独特のユーモアのセンスがあった。まじめきわまる話題の最中に、なんともおかしいエピソードやジョーク、比喩を口にして、爆笑させられることがよくあった。
 なお言論人としての屋山さんが行政改革、選挙制度改革、官僚制度の刷新、国鉄の民営化などに中枢の役割を果たしてきたことも、知る人ぞ、知るである。
 偉大な言論人、そして日本を憂い、愛した屋山太郎さんのご冥福を祈りたい。