南シナ海仲裁裁定にみる中国共産党の大誤算

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常務理事 髙井 晉

南シナ海における中国の侵略的進出が国連海洋法条約に違反するとして、フィリピンは、2013年6月21日に15の争点について中国を仲裁裁判所に提訴し、仲裁裁判所は、2016年7月12日に歴史的な裁定(award)を下した。すなわち仲裁裁判所は、中国が南シナ海への侵略的な進出の正当性の根拠としていた「九段線」を全面的に否定し、「南シナ海における資源に対する歴史的な権利(historic rights)を主張する法的な根拠はない」と断じたのであった。中国は、2014年12月7日にポジションペーパーを仲裁裁判所へ提出し、フィリピンの争点について仲裁裁判所には管轄権がないと主張していたことも相俟って、この仲裁裁定に衝撃を受けたことは想像に難くない。
 国連海洋法条約は、批准の際に留保を付すことを認めておらず、同条約の適用や解釈について締約国間に争いがある場合は、紛争当事者が自由に選択する平和的手段によって解決する義務を、締約国に課している(279条)。国連海洋法条約が用意した平和的手段は、国際海洋法裁判所、国際司法裁判所、仲裁裁判所、特別仲裁裁判所(289条)で、これらは条約の解釈や運用について管轄権を有しているが、管轄権に争いがある場合は、当該裁判所の裁判で決定することになる(288条)。
 無誤謬を通してきた中国共産党は、自己の行動の評価について外国人の第三者の判断を仰いだ経験が無いこともあり、弱小国家のフィリピンが仲裁裁判所へ提訴した際も、大国中国がこれに応訴しなければ裁判は開始されないと高をくくっていたのであろうか。仲裁裁判所が争点の管轄権を認めて裁判が開始された後も、中国は、仲裁裁判所に管轄権がないとの主張を繰り返し、仲裁裁判に圧力をかけて阻止しようとしただけで、国際法、とりわけ国際裁判についての無知をさらけ出した感があった。中国共産党は、仲裁裁定直後、中国外務次官に同裁定は紙くずに過ぎないと表明させ、裁定を無視して従来の行動を継続する旨の強がりを示した。
 国際社会で責任ある大国としての行動が要請されている中国は、フィリピンの提訴に対し自己の立場を堂々と主張していれば、国際法を遵守する中国は大国に相応しいとの評価が得られ、異なった仲裁裁定になった可能性がある。中国は、仲裁裁定直後、南シナ海の問題に関する自国の立場と政策を表明した「白書」を発表したが、これは、仲裁裁判所の審理に対して何ら影響力もなく、出し遅れた証文以外の何ものでもなかった。
 中国共産党が蒙った最大の痛手は、前述したように、南シナ海の侵略的進出の根拠としていた「九段線」について、歴史的な権利を主張する法的根拠はないと裁定されたことである。中国の南シナ海の資源に対する独占、そして西沙群島や南沙群島の岩礁の武力による奪取の正当性の根拠は、脆くも崩れ去ったのであった。もう一つの大きな痛手は、2014年にフィリピンから奪取したスカボロー礁がフィリピンの排他的経済水域内にあると断定され、フィリピン漁民が伝統的に行使してきた漁業権を中国が侵害してきたと裁定されたことである。
 中国共産党は、スカボロー礁に人工島を建設し、軍用滑走路その他の施設を建設して周辺海域のコントロールを目指していたという。これにより、現在海南島にある原子力潜水艦の基地を西フィリピン海に建設し、米国に対する核能力を一段と向上させる計画もあったと聞く。また中国は、1974年にベトナムから奪取した西沙群島のウッディ島と1988年に奪取した南沙群島の岩礁の人工島に建設した軍用滑走路、そしてスカボロー礁に建設予定の軍用滑走路を結ぶ「南シナ海防空識別圏」を設置し、上空飛行を制限することも計画にあったといわれている。
 南シナ海における中国の権益確保は、中国共産党にとって最大級の課題である。すなわち中国共産党は、高らかに公言した「偉大な中華民族の復興」と「海洋強国の建設」を必ず実現させなければならず、これらの目的のために、東シナ海から南シナ海へと続く第1列島線内への「接近阻止(A/A)」の態勢構築は、中国共産党にとって至上の命題である。なぜなら中国共産党は、南シナ海の問題を核心的利益の問題と公言してきたからである。
 無誤謬の中国共産党は、この度の仲裁裁定に反発し、南シナ海に対する従来の行動を継続するであろう。国際裁判の弱点は、判決あるいは裁定を強制する手段を欠いていることである。敗訴国は、判決あるいは裁定を遵守する国際法上の義務を負っているが、かかる義務を履行しない場合は、国連安保理事会の注意を喚起する他はない。しかし中国は拒否権を有する常任理事国であり、安保理への注意喚起は徒労に終るであろう。
 南シナ海における中国の侵略的進出を阻止する上で、この度の仲裁裁定は、南シナ海における中国の侵略的進出を快く思わない国家にとって朗報であり、現在米国が実施している「航行の自由作戦(FONOPs)」の法的根拠として看做し得る。しかし、南シナ海における中国の行動を阻止するためには、武力衝突に至らない手段でこれを実施することが肝要である。フランスは、南シナ海への艦隊派遣をEUに呼びかけたと聞く。有志連合軍による「航行の自由作戦」は、有力な選択肢の一つであろう。
 国際法秩序を軽視しようとする中国は、当面、南シナ海における軍事的活動を糊塗するために、そして国際的な孤立を回避するために、尖閣諸島周辺海域への進出と東シナ海防空識別圏の活用により、尖閣諸島周辺の東シナ海における緊張を高める可能性がある。日本は、領域警備法等の必要な法的整備が遅れており、無害ではない通航、軍用機の領空侵犯そしてゲリコマを排除するために必要な権限を盛り込んだ法を制定し、東シナ海における諸問題に対し毅然たる態度で臨める法的環境を整備する必要がある。この度の仲裁裁定は、このような措置を喫緊の課題としたのであった。