北方領土交渉はなぜ失敗したか

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拓殖大学海外事情研究所教授 名越健郎

領土交渉は仕切り直し 
安倍晋三首相は5月6日、ロシアのソチを訪れ、プーチン大統領と非公式首脳会談を行った。差しの会談を含め3時間以上にわたった会談で、安倍首相は北方領土問題で「新たな発想に基づくアプローチ」で交渉を進めることを提案。エネルギー協力や都市整備、中小企業拡大、医療協力、産業多様化など八項目の協力方針を提示した。詳しい会談内容は不明だが、安倍首相は「領土問題の交渉を打破する突破口を開くことができた」と述べた。
 日露間では、両国首脳の交互の訪問が原則だが、今回のソチ訪問で安倍首相は3回連続で訪露したことになる。懸案のプーチン大統領訪日は、14年のウクライナ危機の煽りで延期され、未だに実現していない。次の訪問も、安倍首相が9月初めのウラジオストクでの極東フォーラムに出席する予定で、4回連続で日本の首相が訪露する展開となる。プーチン大統領訪日時期も「適当な時期に調整する」ことに留まった。
 だが、安倍首相の前のめり姿勢とは対照的に、プーチン大統領は領土問題でソフトな姿勢は見せなかったようだ。領土交渉は仕切り直しとなり、すべては今後の交渉にかかることになる。ロシア大統領報道官は「困難な交渉が1回の首脳会談で妥結するはずがない」とし、長期にわたるプロセスとなることを示唆した。
 客観情勢から見て、今後の交渉が難航することは間違いない。プーチン大統領は、歯舞、色丹の二島引き渡しを規定した1956年の日ソ共同宣言の義務を履行する姿勢を見せており、二島返還なら決着可能だ。しかし、二島返還なら60年前に解決可能だったわけで、四島全体の7%にすぎない。もし二島決着なら、日本外交の敗北となり、世論も同意しないだろう。
 かといってプーチン政権はまだ国後、択捉の帰属問題協議に応じると言ったことはない。領土問題の核心は国後、択捉の取り扱いにかかるが、近年ロシアは愛国主義を強め、ラブロフ外相は「四島のロシア領有は大戦の結果であることを日本が認めることが前提」と主張している。「領土問題は70年前に既に決着している」(モルグロフ外務次官)といった強硬発言も飛び出した。
 昨年の戦勝70周年を盛大に祝うなど、戦勝意識を強めるロシアは大戦の「戦利品」である領土問題で一段と強硬になり、世論も90%以上が日本への返還に反対している。ロシアは9月に下院選挙を控え、18年3月の次回大統領選に向けて政治の季節に入る。原油安や欧米の経済制裁でロシア経済は危機的状況にあり、生活苦が高まり、国民の不満も広がっている。プーチン政権にとって、支持基盤である保守派の反発を招く領土返還は政治的リスクを伴うことになる。
 このように、客観情勢は極めて厳しく、今後の交渉も難航が予想されよう。それにしても、日本の対露外交を見ていると、本来動くべき時に動かず、難しい時に動こうとする奇妙な欠陥が垣間見える。
 例えば、25年前のソ連邦崩壊前後は、千載一遇のチャンスだったが、日本外交は動かなかった。新思考外交を進めたゴルバチョフ時代や、欧米との協調を重視したエリツィン時代は社会主義やスターリンが否定され、スターリン外交の全面修正が図られていた。戦勝意識も希薄で、戦勝記念日の祝賀も地味だった。現在とは全く異なる時代背景だったが、日本外交は世界とロシアの激変を突く巧みな外交ができなかった。四半世紀前の対露外交不調のツケが、今日の日本外交に重くのしかかっているといえよう。
 本稿では、過去70年間で領土問題解決の最大のチャンスだったと思われるソ連崩壊前後の日露交渉に焦点をあて、日本外交がなぜあの時、好機を生かせなかったかを分析する。過去の失敗の原因を究明しないと、新たな失敗を犯すことになるからだ。


ユートピアの時代

 25年前の91年8月、ソ連保守派が決起して失敗したクーデター事件後、ソ連邦は音を立てて崩れ始め、ソ連からロシア共和国へ、ゴルバチョフからエリツィンへと権力の移管が進んだ。ソ連を支えた共産党は活動停止となり、旧ソ連国家保安委員会(KGB)は分割縮小され、軍も存在感を低下させた。その後、バルト三国の独立、新連邦条約交渉の破綻、ウクライナ独立を問う国民投票可決を経て、12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳がソ連邦解体を決定した。統治する国を失ったゴルバチョフ大統領は年末に辞任を発表してソ連邦は解体、15の新興独立国が誕生した。ロシアがソ連の継承国家となり、北方領土問題はロシアが継承した。
 このプロセスと平行して、エリツィン大統領率いるロシアは日本との平和条約締結による関係正常化へ動き出した。背景には、ロシア指導部が当時圧倒的な経済力を持っていた日本の支援がロシア再建に不可欠と考えたこと、日本専門家の改革派学者ゲオルギー・クナーゼ氏が外務次官としてロシアの対日政策を統括していたことがある。
 クナーゼ次官は91年9月、北方領土を訪れ、島民との対話でこれまで伏せられていた領土問題の実態を話し、日本の主張にも合理性のあることを強調した。同次官は島民の罵声を浴びたが、ロシアが返還を前提に島民の説得に乗り出したと思われた。その後エリツィン大統領は「国民への手紙」という形で声明を出し、「近い将来においてわれわれが解決すべき問題に、日本との最終的な戦後処理の達成がある」「日本との国境画定問題は、正義と人道主義に沿って島民の利益と尊厳を守る」などと述べた。暗に、返還後に立ち退く島民への補償を約束したともとれる。
 これに対し、日本側はクーデター直後、斎藤邦彦外務審議官がモスクワを訪れ、エリツィン大統領にロシアの改革への支援と平和条約早期締結を伝える海部首相の親書を手渡した。また中山太郎外相がモスクワを訪れ、ゴルバチョフ、エリツィン両大統領と会談。「ソ連・ロシア側が四島への日本の主権を認めれば、実際の日本への引き渡しの時期や態様については柔軟に対応する」と伝えた。従来の「四島即時一括返還」の要求を降ろし、現実的に対応する意向を示したものだ。ただ、クーデター事件からソ連崩壊までの4カ月間、西欧首脳の多くがモスクワを訪れ、米国もベーカー国務長官らを頻繁に派遣したことからすれば、欧米と比べて日本外交は鈍かった。永田町ではこの時期、「海部おろし」が吹き荒れていた。
 ソ連を継承したロシアとの最初の日露首脳接触は、冷戦終結を記念した92年1月末の国連特別総会での宮沢喜一首相とエリツィン大統領の会談だった。大統領は「スターリン主義は否定され、ロシアは法と正義に立脚する。北方領土問題を必ず解決したい。その準備を開始したい」と熱っぽく説いた。宮沢首相は会談後、「物事には潮時がある。自分としては潮時と思っている」と述べた。大統領は2月に宮沢首相に親書を送り、「日本をパートナーかつ潜在的同盟国とみなしている」と伝えた。
 ただ、ニューヨークの会談で意外だったのは、日本側が「次はエリツィンが来る番だ」としていたことだった。前年の91年5月、ゴルバチョフ大統領が来日しており、日本の首相が訪露する順番のはずだが、日本側はエリツィン大統領の訪日を求め、時期の設定も任せた。この微妙な判断の狂いが、その後の領土交渉の不調に繋がっていくことになる。当時のロシアは、ソ連崩壊と市場経済ショック療法で経済が大混乱し、飢餓の到来まで懸念されていた。首脳会談直後に、宮沢首相がモメンタムを逃さず、大型援助を抱えて素早く訪露し、大統領と直談判していたなら、歴史は動いたかもしれなかった。
 ロシアでは、急激な市場経済移行で経済が混乱し、保守派が国民の不満を吸収して徐々に復活。92年7月には漁業利権を持つ漁業マフィアらが主導して日ロ関係の議会公聴会を開き、領土返還反対論を唱えた。7月のミュンヘン・サミット(主要国首脳会議)の政治宣言に、日本側が強引に領土問題を明記させたことも、結果的にロシアを硬化させた。案の定、エリツィン大統領は91年9月に予定された訪日を「日本側から圧力を受けた」として出発4日前にドタキャンし、領土問題解決機運は急速に遠のいた。
 懸案のエリツィン訪日は、93年10月に実現し、「四島の帰属問題を法と正義の原則で解決する」とした東京宣言が調印された。しかし、東京宣言は漠然とした努力目標であり、両国の政治混乱もあって交渉はストップした。その後、97年に橋本龍太郎首相とエリツィン大統領による「クラスノヤルスク・プロセス」が始まり、双方は20世紀中の平和条約締結を目指すことを決めた。しかし、大統領の健康不安や政治力低下で交渉のモメンタムは既に失われており、案の定、ロシアは日本が提案した「川奈提案」を却下した。
 2000年に登場したプーチン政権が国粋主義を強めると、領土返還機運はまた遠ざかった。「強いロシア」を目指すプーチン政権が反米、親中外交を強め、北方領土交渉が停滞したのは周知の通りだ。


千載一遇の好機

 過去70年で北方領土が日本に最も近付いたのは、ソ連崩壊前後だろう。ゴルバチョフ時代末期から、ロシアには社会主義への嫌悪感と西側への羨望、欧米型民主主義・市場経済への期待感が充満し、民主化への一種のユーフォリア(陶酔感)が漂った。市場経済移行に伴い国民生活は疲弊したが、若い世代には独裁からの解放感がみなぎっていた。エリツィン大統領は8月クーデターを鎮圧して、90%近い支持率を集めた。現在のロシアは愛国主義への陶酔感が充満し、プーチン大統領の支持率も90%近いが、当時は全く異なる社会風潮であり、四半世紀を経た社会と国民の倒錯にも驚かされる。
 スターリンが大嫌いなエリツィンは「勝者が敗者の領土を奪うのは誤りだ」「スターリン外交の過ちを正す」「北方領土問題を必ず解決したい」と公言していた。「敗戦国には領土返還を求める権利はない」(ラブロフ外相)という今日の要人発言とは180度異なっていた。
 むろん、権謀術数型政治家のエリツィンはソ連解体を正当化し、政権運営をスムースに進めるため、意図的に欧米志向を強めたところがあるが、ソ連崩壊当初は国民もこれを容認し、保守派や民族愛国主義者は沈黙していた。ソ連邦崩壊と15共和国の独立により、ソ連を主導したロシアは人口の50%、経済の40%、面積の25%を失ったといえるが、この喪失感に比べれば、北方領土は微々たるもので、抵抗感もなかったはずだ。
 当時のロシア人にとって、最先端技術を持つ日本は「夢の国」だった。バブル経済が破綻しつつあったとはいえ、軽武装、経済優先、製造業多角化が成功した日本は冷戦最大の勝者といわれた。92年の日本の国内総生産(GDP)は世界全体の14%を占め、一人当たりGDPもルクセンブルクやスイスに次ぐ世界3、4位だった。一方のロシアは、社会主義経済システムが崩壊し、原始的な資本主義が始まったばかりで、苦境に直面し、生活水準が悪化していた。モスクワでは「日本が後ろ向きに走ってきても、ロシアは絶対に日本を追い抜けない」などと、日本を題材にしたアネクドートが自嘲気味に語られていた。巨大先進国の日本の援助を受けられるなら、領土割譲は仕方がないという雰囲気さえ感じられた。しかし、日本経済はその後、バブル崩壊で混乱し、グローバル経済にもついてゆけず、長期低迷時代に入った。国際通貨基金(IMF)によれば、14年の日本のGDPは世界全体の7%と半減し、一人当たりGDPも世界26位まで落ち込み、アジアではシンガポールと香港に抜かれた。一方のロシアは、21世紀に入って資源価格高騰で高成長を遂げ、両国の格差は接近していく。日本経済の低迷は、対露戦略で日本の最大の武器である経済カードの効力を低下させた。
 日本は90年代初期の強力な経済力をロシアに誇示することにも失敗した。92年の訪日の事前折衝で、エリツィン政権は10年間で総額500億ドルの対露支援を打診していた模様だが、日本政府は応じなかった。国際機関を通じた日本の対露援助は地味で、ロシアへのアピールも不十分だった。粗雑なエリツィン大統領は期待した日本の援助が少ないことに苛立ち、「日本の対露支援はG7諸国の中で最下位だ」(実際には7か国のうち4位)と酷評した。記者団に「日本はロシアに、1セントも、1円も投資していない」と不満を述べたこともある。
 実際にはかなりの税金をロシア支援につぎ込みながら、宣伝能力の不備や、戦力の逐次投入という戦前からのエリート官僚特有の欠点がみられた。ロシアの保守派学者は「日本は90年代のロシアが最も苦しい時期に支援しなかった」としばしば批判するが、この見方が一般市民の間で定着している。
 国際環境という点でも、ソ連崩壊前後は領土問題解決の好機だった。当時のブッシュ米大統領はゴルバチョフ、エリツィン両大統領に日本との交渉促進による平和条約早期締結を働き掛けた。ブッシュ大統領は91年7月、モスクワ国際関係大学で講演し、「われわれは第二次大戦に起源を発し、長い冷戦によって凍結された紛争に直面している。たとえば、日本の北方領土返還要求があり、米政府はそれを支持する。この問題は貴国の世界経済統合を妨げるものであり、われわれはその解決を支援するため、できることは何でもしたい」と述べていた。冷戦終結後、米政府は欧米の価値観に近づいたロシアを准同盟国とみなし、同盟国の日本との関係を正常化させることで、ロシアを西側陣営に一層引き込もうと考えたようだ。クリントン大統領も橋本、エリツィン両首脳の仲介を図るなど平和条約締結を促した。しかし、日露両国は米国の期待に応えられなかった。今日、オバマ政権はプーチン大統領の訪日計画を進める安倍政権に対し、「ロシアと通常の外交を進めるべき時ではない」として訪日に反対している。同盟国の米国が望む時に動かず、望まない時に動こうとする日本の対露外交はちぐはぐだ。


92年秘密提案

 ソ連崩壊後の92年3月、ロシアのコズイレフ外相が訪日し、渡辺美智雄外相との外相会談が行われた。この時ロシア側は領土交渉で秘密提案を行っていたことが後に明らかになる。提案は、①歯舞、色丹の返還手続きに関する交渉 ②国後、択捉の地位に関する交渉-を行い、合意後に平和条約に締結するという二つの交渉を同時並行で行う内容だった。
 日本側で提案内容を知るのは、当時の故渡辺外相、小和田恒外務次官、斎藤邦彦外務審議官、兵藤長雄欧亜局長らごく少数に限られるが、北海道新聞の本田良一編集委員は15年12月に掲載された長期連載『証言・北方領土交渉』で当時の幹部のコメントを取っている。それによれば、兵藤氏は「話を聞いて、『大臣、全然新しい話はないですよ』と言った記憶がある。『歯舞、色丹の返還は56年の日ソ共同宣言でもう約束している。問題は国後、択捉であって、2と2に分けてはダメですよ。まず4という原則をのませることが先ですよ』と。公式な案ではなく、うっかり乗ったら危ないと思った」と答えた。
 斎藤氏は「歯舞、色丹が返ってくるというのは、もう共同宣言で決まっているので、そのための技術的な協定を作っても、日本には何もメリットはない。これに乗っちゃうと、少なくともしばらくの間、歯舞、色丹だけが交渉の対象になって、協定を作って……となる。その間、国後、択捉はほったらかしになります」と話した。クナーゼ氏も同紙に対し、「(日本側に)何回も説明しようとしたのですが、歯舞、色丹は間違いなく日本に引き渡すことが決まっている。ただし、国後、択捉は交渉ですから、わが方にもいろんな反論がありますから。うまくいけば、日本側は残りの二島(国後、択捉)も手に入る。下手をすると、うまくいかない」と語った。
 結局日本側は、「この提案を真剣に考えたという記憶はない。検討ぐらいはしたかもしれない」(斎藤氏)といわれ、外交用語で言う「優雅な無視」を決め込んだ。しかし、今から考えると、この提案は領土交渉史を通じて、ロシア側からの最大の譲歩案だったといえる。拒否する場合でも、日本側から対案を出し、本格交渉につなげるべきだった。
 実は、コズイレフ提案は、2001年のイルクーツク会談で、日本側がプーチン政権に提示した「並行協議」案と瓜二つだった。イルクーツク会談で日本側は、①歯舞、色丹の返還交渉 ②国後、択捉の帰属交渉-を同時並行的に行うとする「並行協議」案を提起したが、今度はロシアが「優雅な無視」を決め込んだ。プーチン政権はまだ一度も国後、択捉の帰属協議に応じると言ったことはなく、92年3月段階のロシアがはるかに柔軟だった。
 東郷和彦・京都産業大教授は日本側が提案を無視した背景について、「取りすぎの誘惑に勝てなかったのだろうか。これは交渉上、最も陥りやすい誘惑である。相手が究極の譲歩をして来たときに、それが相手の限界であることを認識できず、『もうひと押しする』という誘惑から抜け出せないことがある」(『北方領土交渉秘録』)と書いた。あるいは、当時の外交当局は、日露の国力、経済格差がますます拡大し、放置してもさらに歩み寄ってくると考えたかもしれない。実際には、日本経済はその後長期停滞に陥り、経済格差は接近していく。


日本外務省の欠陥

 冷戦終結期の日本外交の迷走とは対照的に、同じ敗戦国のドイツはゴルバチョフ政権との間で巧みな首脳外交を行い、戦後処理を完了した。コール独首相は何度も訪ソし、ドイツ統一や統一ドイツのNATO加盟をゴルバチョフ大統領に認めさせた。戦後の懸案処理という点で、日本よりドイツの外交力が優っていた。
 町村信孝元外相は生前、BSフジの番組で、「ソ連崩壊のころ、永田町では選挙制度改革に伴う区割り法案作成に躍起になっていた。もっとドイツのように、国際情勢の激変に目を向け、北方領土問題に精力を注ぐべきだった」と自省していた。日本の政治家がソ連崩壊、冷戦終結という歴史的な地殻変動の意味を十分理解できず、旧来の永田町的発想から抜け出せなかったことにも、日本外交の限界があった。
 戦後の歴代政権が外交を外務省に丸投げし、外務官僚が外交を独り占めする体質にも問題があった。92年の秘密提案も、一握りの外務官僚だけで拒否が決まり、官邸にほとんど報告されていなかった模様だ。93年の東京宣言でも、細川首相率いる連立政権はほとんど関与せず、外務省に丸投げだった。日露外交では、橋本龍太郎首相のころから首脳外交を重視するようになったが、それまでは政治家が外務官僚の振り付けで行動することが多かった。官僚は保身を重視せざるを得ないだけに、思い切った政治判断は下せない。
 外務省が外交を独占する体質は、5億円の外交機密費を不正流用して有罪となった松尾克俊元外務省要人外国訪問支援室長のスキャンダルをはじめ、2000年代初頭に発覚した、大使らのカネをめぐる不祥事につながったといえる。安倍政権では、首相官邸と国家安全保障局が司令塔となって外務省に指示し、首脳外交を切り札とする本来あるべき外交形態がようやく確立した。
 冷戦終結当時、日本のメディアや論壇でも時代を歴史的好機とみなし、ソ連・ロシアとの交渉加速を訴える意見は少なかった。その中で、中国研究者の故中嶋嶺雄前国際教養大学長はゴルバチョフとエリツィンの改革を「本物」とみなし、領土問題解決の「歴史的な好機が到来した」として交渉加速化を訴えていた。中嶋氏は86、87年の時点で、「今後の日ソ関係は経済交流を中心に進み、ソ連の国内事情からしても、対日依存度が高まると思われる。これは日本が外交的に使える最も強力なカードだ。日ソ間の相互依存関係をソ連にとってよりバイタルなものにすることが重要であり、それが北方領土問題にも日本の安全保障にとっても、アジアの平和にとっても重要だ」と指摘していた。しかし、「まず二島返還を確保し、残りの二島についてはあくまで領有権を主張しつつ共同利用や共同開発、買い取り等の道をさぐる」という中嶋氏の提案に対して、外務省幹部は「二島返還論」と一蹴し、無視した。
 だが、今日の保守本流である安倍政権では、谷内正太郎・事務局国家安全保障局長ら、かつて面積折半などの「妥協的譲歩」に言及した幹部が脇を固めており、領土問題が長期化する中、一定の妥協はやむなしといった国論に傾きつつあるかにみえる。領土問題はいずれ、最高首脳同士の相互譲歩による政治判断で決着せざるを得ないとするなら、日本の国力の相対的低下とともに、時間が経過するほど日本の譲歩の幅が広がる恐れがある。その意味でも日本経済が絶頂期にあった冷戦終結前後の千載一遇の機会に速攻で解決すべき問題だったのだ。
 冷戦終結の立役者の一人であるベーカー元米国務長官は回想録で「外交はタイミングがすべて」と強調したが、戦後70年を経ても北方領土が1センチも戻ってこない現実は、バブルに酔ってモメンタムを読めず、好機に果敢に攻められなかった日本外交の稚拙さを示している。


名越健郎(なごし けんろう)

1976(昭和51)年、東京外国語大学ロシア語科卒業後、時事通信社入社。バンコク支局特派員、モスクワ支局特派員、ワシントン支局長、モスクワ支局長、外信部長、仙台支社長を務め、2011(平成23)年に退社。2012(平成24)年、拓殖大学海外事情研究所教授。著書に『ジョージ・ブッシュの華麗なユーウツ』(新潮社、2001年2月)、『ジョークで読む国際政治』(新潮社、2008年3月)、『「新冷戦」の序曲か―メドベージェフ・プーチン双頭政権の軍事戦略』(木村汎、布施裕之共著)(北星堂書店、2008年12月)、『独裁者プーチン』(文藝春秋、2012年5月)など多数。