中国の南シナ海覇権追求は「線」から「面」に拡がるか
-ドゥテルテ外交と日本の役割-

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政策提言委員・元空自航空教育集団司令官 小野田治

中国の野望
 アジア地域に新たなワイルドカードが出現した。フィリピンのドゥテルテ大統領である。「新たな」としたのは、すでにいくつかのワイルドカードが存在しているからである。その一つが、中国が数年前から南沙諸島において岩礁を埋め立てた大規模な人工島の上に3000m級の滑走路や港湾施設などを建設する挙に出ていることである。戦略原潜の基地でもある南海艦隊の根拠地である海南島から南に700kmに位置する西沙諸島を、中国は「三沙市」と国内法で規定して軍事基地化を進め、諸島最大の島であるウッディー島には2700mの滑走路などが建設されている。そこからさらに南に約900kmの南沙諸島で、ここ数年のうちに7つの岩礁が埋め立てられ、そのうちの3つは3000m級の滑走路を持つ人工島に変貌した。南沙諸島を基地化すれば、南シナ海を縦断する海空軍の運用根拠地を手にすることになる。
 南北に広大な南シナ海だが東西の距離も長い。海南島から南沙諸島に至る南北の線を面に広げるのに最適と見られる岩礁がマニラから約200km西方のスカボロー礁である。同礁は埋め立てて広大な面積を得るのに適した環礁であり、基地化すれば南シナ海を3角形の面でカバーすることが可能になる。「面でカバー」という言葉にはいくつかの重要な意味が含まれている。第1に中国が歴史的権利を主張する9段線内での実力行使が容易になり、弱小な沿岸諸国を力で圧倒することが可能となる。そうなれば9段線内の海域における海底資源や漁業資源を独占することができる。第2に南シナ海から中国沿岸にかけて情報収集を行っている米軍艦船、航空機の行動を抑制することができる。海南島を根拠とする戦略原子力潜水艦が米軍の探知を避けて南シナ海、西太平洋、インド洋に進出することが可能となり、対米核抑止の信頼性向上につながる。第3に米軍が南シナ海を経由して中国本土を攻撃することが難しくなるとともに、中国から米軍の拠点であるグアム島へ多様な攻撃を仕掛けることが可能となる。第4に西太平洋及びインド洋への出入口である国際海峡へのアクセスが容易になり、海峡封鎖への対処能力が向上する。

仲裁裁定とドゥテルテ外交
 話をドゥテルテ大統領に戻そう。フィリピンは、スカボロー礁を含む南シナ海の島嶼の領有権をめぐって中国と係争状態にあるが、2002年に交渉を通じて関係紛争を解決することに同意した。2012 年 4 月、スカボロー礁付近で操業する中国漁船をめぐって、中国とフィリピン両国の巡視船が対峙した。台風接近によりフィリピン巡視船が一時的に退避した後に中国公船と漁船は現場に残り、爾来中国がフィリピン船舶の接近を体当たり等によって実力阻止している。2013年4月、中国のこうした実力行使を契機として、9段線など15項目が国連海洋法条約に違反するとして、フィリピンはハーグの常設仲裁裁判所に提訴した。中国は、フィリピンの提訴は2国間交渉によって問題を解決するとした合意に反する、提訴は本質的に領有権に関するものであり海洋法条約に基づく裁判所には管轄権がないなどとして、裁判の法的正当性を認めないし裁判にも参加しないと表明した。裁判所はフィリピンの提訴のうち少なくとも7項目には管轄権を有するとして中国の申し立てを退け、3年の審理を経て本年7月にフィリピンの15項目の提訴のうち、1項目を除いてフィリピンの主張をほぼ全面的に認めた。
 中国はこの裁定は無効であり従う必要はないと強く反発、裁定直後には南シナ海で大規模な軍事演習を実施し、軍事力の使用を躊躇しない姿勢を見せた。米国や日本は、中国は仲裁裁定に従うべきと国際世論に訴えているが中国の反発姿勢は強硬である。同時に中国は豊富な資金力と経済力を使ってフィリピンを懐柔に出た。本年10月20日、訪中したドゥテルテ大統領は仲裁裁定を棚上げして中国の経済支援を獲得するという選択を行った。棚上げの見返りは鉄道の建設支援をはじめ経済・貿易の振興である。おまけに大統領は、同盟国の米国を罵倒し「決別する」と宣言して中国政府を二重に喜ばせた。訪中に次いで10月25日に訪日した大統領は、親日をアピールして経済支援などに期待を表明するとともに、南シナ海問題については「語るべき時でない」として中国に配慮した。心配された決別宣言については、米国との同盟以外に選択肢はないとして米国との関係を維持する意志を示す一方で、自国のことを「ひもでつながれた米国の犬のようなものだ」と言い、2年以内に米軍の撤収を望むとも表明した。帰国直後の会見では、日本から帰る機内で空を眺めていたら突然声が聞こえ「悪態をやめなければ今すぐ飛行機を落とす」と警告を受けたと言い、「私は神に品のない表現を使ったり、悪口を言ったりしないよう約束した。神との約束はフィリピンの人々との約束でもある」と、再三にわたって米国を罵倒してきたことを反省するそぶりを見せた。まさにワイルドカードの面目躍如である。

嫌米親日の比大統領と日本の役割
 ドゥテルテ大統領が米国を嫌悪する理由は、かつて米国がフィリピンの主権を無視して防若無人に行動したことに由来していると報道されているが、果たして大統領は米国との同盟の価値をどのように考えているのだろうか。中国による南シナ海での覇権追求を如何に阻止しようと考えているのだろうか。好き嫌いだけではない大統領の戦略観が問われているが、その真意は未だ判然としない。一方、フィリピンを懐柔できたと考えた中国がスカボロー礁の埋め立てを強行するのか、それとも当面は様子見とするのか注目される。一つだけ確実なことは、たとえ一旦立ち止まったとしても中国が南シナ海での覇権追求をあきらめることはないということである。フィリピンが米軍の前方展開を排斥する方向に進むのであれば、中国は必ず実力でその空白に進出してくるであろう。これまでの歴史がそれを証明している。そうなれば中国の南シナ海での覇権追求は大きく前進し、東シナ海に波及することは必至である。
 2年ほど前に米国でアジア各国から参集した大学生に日本の防衛政策を講義する機会があった。質疑応答の際に、フィリピンの学生が「フィリピンが島の領有権をめぐって中国と戦争になった際には日本に助けてほしい。日本はフィリピンを助けてくれるか?」という質問を受けた。私は、「フィリピンを助けるのは同盟国の米国であって日本ではない。しかし日本はフィリピンを助けるために行動する米国を支援することになるだろう。」と答えた。フィリピン学生は悲しそうな表情を浮かべ、他のアジアの学生たちからは「日本は地域の大国であり、地域安定のためにもっと寄与すべきだ」という声が聴かれた。
 現在の日本にできるのは米軍の前方展開を維持するようフィリピンを説得すること、フィリピンの経済発展を支援するとともに法執行力と軍事力の強化に手を貸すこと、ASEANのような多国間の枠組みを強化することである。ドゥテルテ大統領の戦略観は、報道などによればアジアはアジアの人々が統治すべきというもののようだ。であれば、たとえ小国であっても自らの領有権は自ら防衛することが不可欠だ。日本に米国の役割を肩代わりする力はないが、地域のリーダーとしてより大きな役割果たすことが期待されている。フィリピンも米国もASEAN諸国も、そして中国も日本の対応を注視している。

出典: Economist “China v the rest”, May 26, 2016を基に筆者が作図
http://www.economist.com/news/asia/21695565-sea-becomes-more-militarised-risks-conflict-grow-china-v-rest

(2016.11.1記/週刊WINGより転載)


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小野田 治(おのだ おさむ)
1977年防衛大学校卒(21期)。航空自衛隊での専門は通信電子。第3補給処長、第7航空団司令、航空幕僚監部人事教育部長、西部航空方面隊司令官、航空教育集団司令官を歴任し2012年7月に退官。同年10月、㈱東芝インフラシステムソリューション社顧問。2013年7月から2015年6月までハーバード大学アジア・センターでシニア・フェロー。神奈川県出身。