小池百合子氏が愛読する『失敗の本質』

.

元法務大臣 長勢甚遠

 今をときめく小池百合子都知事は、いつも『失敗の本質』をそばに置いて参考にしているという話を新聞で見たので、取り出して読んでみた。
 『失敗の本質』は平成3年に中央公論社から出版されたものだが、最近文庫本になっており、それには小池都知事の「何をどうやって間違ったかっていうことは、だいたい失敗に共通することで、要は『楽観主義』、『縦割り』、『兵力の逐次投入』とかですね」との推薦文が掲載されている。
 同書は、6人の研究グループの共著で、ノモンハン事件、ミッドウェイ作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦を取り上げ、日本軍の失敗から得られる教訓を組織論の観点からアプローチしている。
 これらの闘いはいずれも日本軍が大敗し多大の犠牲を払ったもの(但しノモンハン事件については日ソのいずれの敗戦かについては異なる評価もある)であり、作戦の遂行については不可解な点もあって、これまでに作戦に直接関与した参謀、指揮官の手記、回顧録や軍事研究家、評論家などの分析、評論など多くの著作が発表されている。私は小さい頃、所謂、戦記物を読みふけっていたので、同書から特段に新しい事実を知ることは少なく、日本軍幹部に対する批判にも目新しいものはなかった。同書が強調しているのは、これらの闘いに共通してみられる精神力優先、人間関係重視、科学的・合理的思考の欠如など日本軍の組織としての劣悪さであり、それに対比して米軍の優秀さが語られている。こうまで日本軍を馬鹿呼ばわりされると、いかに研究論文といえども不愉快になる。
 以前に読んだ山本七平著『日本は何故敗れるのか』(平成16年 角川書店)も類似の日本軍の体質批判ばかりだったので、不愉快に思ったことを思い出させられた。
 これらの人たちは根本的に日本人の有する精神構造(集団主義、家族主義と言ってよい)を否定したいのであろうと思う。我々は精神力優先、人間関係重視、科学的・合理的思考の欠如などによる弊害を認識し、その影響を少なくする必要があるが、だからと言って日本人の精神構造は否定されなければならないと言われる謂れはない。
 我々は精神力優先、人間関係重視、科学的・合理的思考の欠如などの長所を生かして生きてきたのだし、これからも生きていく自信を持たなければならない。日本の歴史においても日本人の伝統的精神を否定するものが一時的に勢力を持つことがまま起きている。その典型は織田信長である。そのような思考から発する戦略、戦術は他を圧し仇花を咲かすが、いずれ急速に萎むこととなる。義理、人情を否定するものの行動には、その目的自体に大きな欠陥があるのだと思う。
 さて、小池都知事はこの『失敗の本質』から何を学んでいるのであろうか。本書は日米開戦の当否を論ずるものではなく、アメリカとの戦い方の当否を論ずるものである。小池氏の目的はどうも総理の座の獲得にあるようだから、そのための戦い方の指南書として本書を役立てているのであろう。
 小池氏は、細川、小沢、小泉と政界を転々とし(その時々の権力者を利用し)、都民ファーストにより都知事選、都議選で勝利し、希望の党を立ち上げ、その「したたかさ」がみんなを驚かせてきた。
 自分の野望のためにはいかなることにも邪魔されず、時に応じてその実現に都合のいい方策を選択していく小池氏の手法を、小池氏は自ら「しがらみにとらわれず」と表現している。このことからも、人間関係を重視し、合理性を欠いた日本軍の体質を糾弾してやまない『失敗の本質』に、共感を覚えているであろうことが察せられる。
 「しがらみ」とは、本来、川の流れを堰き止めるために作られる竹や木を横に並べた杭のことなのだが、人間関係においては、複雑に絡まる義理、人情を指す言葉として使われてきた。西洋ではそんな考えはないのかも知れないが、日本の精神文化は、存在する義理、人情を尊重して仲良く暮らすことを良しとするもの、即ち、「しがらみ」に縛られることが自然であるとするものであり、「しがらみを断つ」ということはあってはならない不幸な事態を指す表現である。そのため、やむを得ず「しがらみ」を断たなければならなくなった人は大いに悲しみ、人々はそれに大いに同情するのであり、自分の利益のために社会の「しがらみ」を断つ者は人倫に反する忘恩、不義理、卑劣、暴虐の誹りを受けることになるのである。つまり、小池氏の言う「しがらみにとらわれない」とは、自分の出世、利益のためには義理、人情を無視して非人間的な合理主義に基づく行動に徹するということであり、極めて非人間的、反日本人的なことなのである。これでは時代劇に出てくる悪代官、悪徳商人こそ素晴らしいということになる。こういう小池氏の自己中心的な行動パターンは、これまでの政治経歴に明らかであり、今後の行動もそういうものであろう。
 希望の党発足後、小池氏が都知事を辞めて衆院選挙に出馬するかどうかが注目されてきた。『失敗の本質』では、ミッドウェイ作戦、レイテ海戦について日本軍の作戦は目的が曖昧で状況変化への「対応不適応」があったとし、そのためにみすみす戦機を逸したとしているが、小池氏はこれを参考にいかなる行動に出るであろうか。
 総理の座の獲得のために戦略、戦術を組み立てている小池氏が希望の党の代表となったのは、好機を逃さず、自ら衆議院議員となり、総選挙後の特別国会で首班指名候補となる目論見であったろうと思われる。今回の総選挙で「小池総理」が実現しなかったとしても、このおかしなご時勢では、いずれこの戦略、戦術は成功する可能性があったと思われるが、しかし、小池氏にとって期待していたような展開にはなっていないように見える。それは国民の選択を支配するマスコミの動きによる。
 希望の党の立上げに当たっても、反安倍という立場からそれなりの歓迎姿勢を見せる程度に終わったうえ、立憲民主党が設立されるや、左翼優先のマスコミは希望の党との距離を置きつつある。これらは小池氏において想定の範囲にあったのであろう。衆院選への出馬取りやめを言明した。
 この後、今回の総選挙を含め今後の総理の座の獲得を目指してどのような行動に出るのであろうか。小池氏は状況に対応する適応能力を発揮する正念場を迎え、その「したたかさ」が問われることになる。義理も人情も考えないことを信条とする小池氏が我が国の指導者となる日が来るのであろうか。それとも希望の党に結集した同じように義理も人情もない同志によって、追い落とされることになるのであろうか。それは国民が決めることである。