「9・30 事件再考」
―「インドネシア共産党(PKI)の興亡」を読んで―(上編)

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産経新聞客員論説委員 千野境子

 本誌『季報』に4回(Vol.67~70)に亘って連載された当フォーラム顧問・元陸自調査学校長、清水濶氏の「インドネシア共産党(PKI)-9・30事件の顛末―」はとても興味深い内容だった。
 9・30事件はアメリカがベトナム戦争に本格介入する北爆開始と同じ1965年に起きたが、両者には知名度や関心度に大きな違いがある。ベトナム戦争は知っていても9・30事件を知る人は少ない。
 しかし9・30事件はASEAN(東南アジア諸国連合)体制の礎となった事件であり、東南アジアの政治地図を大きく塗り替えた点で、ベトナム戦争にも劣らぬ重要性を有している。
 私はかつて産経新聞シンガポール支局長時代の1997年に同事件を長期連載し、その後2013年に『インドネシア9・30 クーデターの謎を解く』(草思社)をまとめたこともあってずっと関心を抱いて来た。『季報』が一見忘れ去られたような半世紀前の同事件を連載した意義は大きいと思う。
 本稿(上編)は連載への感想と私見、更に下編では連載になかった事件をめぐる近年の新たな動き―映画化、シンポジウム、中国公文書の一時的解禁などについて紹介したいと思う。尚、文中、故人の敬称は省略させて頂くことをお断りする。
 本論に入る前に、参考のために改めて9・30事件の概要を簡単に記しておきたい。
 
 「1965年10月1日未明、陸軍左派が首都ジャカルタで陸軍首脳ら7人を拉致、殺害し、革命評議会を設置。しかし陸軍戦略予備軍司令官スハルト(後に大統領)が直ちにこれを鎮圧するとともに、事件の陰の主役はPKIだとして弾圧、壊滅状態へ追い込んだ。その後PKIに融和的なスカルノ初代大統領も失脚、1968年3月、スハルトが第2代大統領に就任した。」

 9・30事件の特徴は、第1に革命評議会が短時日で瓦解したことに象徴されるようにクーデター計画が極めて杜撰だったこと。第2に、その一方でその後のPKI弾圧が徹底的で情け容赦なかったことである。
 例えばこれによる死者の正確な数は今もって分からない。事件当時、駐インドネシア米国大使だったマーシャル・グリーンは、大統領リンドン・ジョンソンへの事件の報告に「30万人」という人数を携え一時帰国した。