インドネシア共産党(PKI)の興亡 ―9.30 事件の顛末(その2)―

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顧問・元陸自調査学校長 清水 濶

まえおき 
 前号ではインドネシアへの諸外国の関与について触れ、同国における民族主義の勃興、特に共産主義の芽生えについて述べた。本命題に関連して特記すべきは、1924年のセマウン及びタンマラカによる「インドネシア共産党(PKI)」の結成、そしてハッタ等オランダ留学からの帰国者組織「インドネシア連合」とスカルノの在インドネシア民族運動組織「一般研究会」との合体による「インドネシア国民党(PNI)」 結成であり、民族意識への目覚めと自主独立への強い志向が見られたことであろう。 
 彼等活動家に対するオランダ植民地政府の監視追及は厳しく、主だった活動家達は殆ど逮捕拘禁されていた。この意味で1941年の大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発によるオランダ植民地勢力の壊滅は彼等にとって干天の慈雨であり、日本軍の宣撫工作機関は格好の拠点であった。 

1. 大東亜戦争とインドネシアにおける民族主義運動 
(1) 日本軍のインドネシア占領及びインドネシア独立戦争における PKI 
 上述したように、1942年に開始された日本軍の蘭印(現インドネシア共和国・当時は蘭領インドシナと呼称)攻略作戦によってオランダ勢力が駆逐され、小スンダ列島に流刑されていたスカルノをはじめ夫々その他の流刑地に収監されていた反植民地・民族独立主義者政治囚らは流刑地から釈放された。日本軍は独立運動に寛容で、インドネシアの国歌や国旗の制定を容認しており、1943年には日本軍の指導により「防衛義勇軍(PETA)」が編成された。スカルノ、ハッタ等は日本軍に協力してインドネシアの独立を志し、一方シャリフルは地下に潜航してPKIの非合法活動を始めた。