インドネシア共産党(PKI)の興亡 ―9.30 事件の顛末(その3 )―

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顧問・元陸自調査学校長 清水 濶

まえおき 
 前号(Vol.68、P.62~)まで、オランダ植民地時代、大東亜戦争(太平洋戦争)を経てインドネシア独立に至る経緯とその中で民族意識の高揚とオランダ植民地時代後期から浸透・蠢動し始めたインドネシア共産党(PKI)生成発展の足跡について概要を紹介してきた。本号においては不発に終わった共産党のクーデター、1965年「9.30事件」の主役と見られるスカルノのNASAKOM体制の中でインドネシアの政治に大きな影響力を及ぼすまでに巨大化した政治勢力PKIとその対抗勢力として立ちはだかったインドネシア国軍(TNI)について筆を進めることとしたい。 
 中ソ対立の潮流を受けて中国共産党の積極的なPKI接近は顕著であり、特にインドシナ半島情勢における1953年のベトミン(ベトナム独立同盟)軍によるディエン・ビエン・フー攻略と仏インドシナ派遣軍の壊滅(第一次インドシナ戦争の終焉)は西側欧米諸国の「共産主義ドミノ論」への懸念を一層現実的なものとした。 

1. 中国のインドネシア接近 
 当時インドネシア援助に強い関心を示していた国は米国、ソ連、中国であった。我が国も第二次世界大戦中からインドネシアには関わりが深く、1958年1月「日イ賠償協定」が締結され、4億ドルの対インドネシア借款を始め12年間に対日貿易債務1億7千6百91万ドルを帳消しとする合意が成立し両国の国交正常化が実現した。インドネシア側も我が国の外交姿勢を友好的に受け入れていた。しかしながら我が国は軍事に関わる援助に極めて慎重であり、筆者が防衛駐在官として在勤中にもインドネシアを始め一部の東南アジア諸国からの援助打診もあったが日本政府の対応は武器輸出3原則等の制約もあって否定的であった。 
 1960年代は冷戦只中にあってスカルノの容共的政治姿勢から欧米諸国特に米国の姿勢も消極的であった。1961年~1962年のイリアン紛争を中心にインドネシアへの軍事援助はソ連が主導的で、海軍少将を長とする軍事援助団がジャカルタに常駐しており筆者が在勤した1971年から1975年にも尚存在していた。このように軍の装備もソ連・東欧製の兵器が主流であり、基幹部隊には米国製始め西側諸国製、小火器はインドネシア製等雑多であった