まえおき
「9.30事件」の背景、特に誰が、如何なる理由・動機で画策し実行したかについて諸説あるが、インドネシア政府の公式見解は、「インドネシア共産党(PKI)が政権奪取を画策し実行したクーデター未遂事件であり、インドネシア国軍によって鎮圧された」であり、爾来PKIは非合法化されている。
本稿では、事件の背景について、PKIと中国の関与、国軍の動向を中心に筆者が在勤中現地で見聞した情報資料及び感触に基づいて分析を試み、疑問点は疑問点として注記し、終章として筆者なりの結論とした。
尚、首都ジャカルタで生起した「9.30事件」は、殆ど即日鎮圧され首謀者は姿を消し(後、逮捕・処刑)事態は収拾されPKIの企図は挫折した。引き続きジャワ及びバリ島に於いて軍による本格的な「PKI掃討作戦」が実施されたが、本稿はジャカルタにおけるPKIによるクーデター発起と陸軍による初動制圧までの観察に留め、9.30事件を中心にPKIの興亡の回顧を終わることと致したい。
1. 「9.30事件」直前におけるPKI、中国、国軍等の動向
(1)PKIと中国の動向
次第に容共色を濃化させるスカルノ政権の下、PKIの政府内における影響力は次第に重きをなし、これに伴って1964年以降頻発の度を増したPKI指導による農民の土地闘争は苛烈化した。また農民に対する大量逮捕始め農民と軍・政府機関の対立は深刻の度を強める一方、反共軍人、反共国民党員への暗殺事件等非合法な闘争が活発化した。1965年7月、このような情勢下にアイジット議長は強硬にスカルノ大統領に労農戦線の武装化を迫るとともに国軍内に政治部を設置してこれをPKIが握ろうとまで画策している。この年に大統領は政府に労農戦線の武装化による第5 軍創設の検討を命じた。
ロミハン・アンワール著『嵐の前ノインドネシア』によればこの頃スカルノ大統領と軍の間には相互嫌悪感が顕著となり、PKIに対しては、わが兄弟、わが同胞と呼び、PKIが死ぬ時は自分も存在していないと公言するほどPKIに偏向していた。
一方、前号でも述べたように1964年から65年にかけて中国とインドネシア両国関係は外相の相互訪問始め要人の交流往来が活発化し、65年にインドネシアがマレーシアとの武力紛争問題で国連脱退に踏み切った際、中国はいち早くインドネシア支持を表明し、またスバンドリオ外相(当時)は中国訪問時に「イギリス帝国主義者に攻撃された場合、インドネシアは中国に軍事援助を要請する」旨を公表している。また中ソ対立ではインドネシアは中国支持を鮮明にしており、このような両国の緊密な関係は、中国のインドネシアに対する資金援助、武器供与に見られ、周恩来首相によるインドネシアの労農戦線武装化と武器供与の提案がなされたと伝えられている。