澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -90-
岡田氏が新党名を「民進党」にこだわった理由

政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所教授 澁谷 司

 今年2月下旬、我が国の民主党と維新の党の合流が決まった。3月14日、両党は世論調査の結果、新党名を「民進党」に決定し、その変更手続きに入った。台湾の民進党(今年5月20日から与党)と同じ名称である。そして、同月16日、民主党は両院総会で新党名の了承が得られた。
 常識的に考えれば、民主党と維新が合流するので「民新党」ならば話はわかる。なぜ「民進党」だったのか。
 ここからは、筆者のささやかな思い出を記す。すでに20年以上前の出来事である。ある日、台湾関係の小さな研究会があった。
 当日、台湾研究の第一人者、東大の若林正丈先生が発表されている。そこで、筆者は若林先生にいくつか質問をした。その時、先生は「学会みたいですね」と苦笑されていたのを今でも忘れない。
 たまたま、その研究会には2次会が用意されていた。そこで、筆者はある若手政治家に会っている。名刺には「自民党代議士 岡田克也」と印刷されていた。誰あろう、現在の民主党代表 岡田克也代議士である。
 筆者の記憶に間違いがなければ、その時、岡田氏と筆者は「台湾独立」や「台湾の国連(再)加盟」について、突っ込んで語り合った。当時、岡田議員はかなり台湾に興味を抱いていたのである。同時に、台湾人に対する思いが強かった印象を持った(ただし、岡田議員は筆者の事をまったく覚えていないだろう)。
 その後、岡田氏は新進党などを経て、民主党議員になった。そして、野田佳彦内閣では、副総理の重責を担っている。
 周知のように、民主党は自民党に比べ、全体的にやや「左寄り」である。したがって、民主党は中国との友好関係を重視したため、台湾とは距離を置いている。それは岡田氏も例外ではなかっただろう。
 けれども、今回、民主党が維新の党と合流するにあたり、岡田代表は「民主進歩党」(台湾の民進党の正式名称)を主張したと伝えられている。
 もし、それが事実だとするならば、岡田氏は若手議員の時と同じように、ずっと台湾・台湾人への思いが強かったのだと考えざるを得ない。そうでなければ、「民主進歩党」にこだわる必要など微塵もないだろう。
 我が国では、「民進党」という新名称に対して少なからず批判がある。けれども、筆者には岡田氏の思いが理解できる。口には出せないが、岡田氏はたぶん台湾が好きなのではないか。
 幸い、台湾の民進党スポークスマンは、日本の「民進党」という新党名に対して“祝意”を示した。実に“大人の対応”である。だが一方で、台湾の一部民進党議員は、日本の「民進党」という名称に不快感を示したという。それは、民主党が北京に傾斜してきたためかもしれない。

 ところで、台湾の民進党は今年で結党30周年を迎える。1949年12月、国民党が中国大陸から渡台して以来、当地では長らく「結党の自由」がなかった。
 しかし、1986年9月、蔣経国政権(副総統は李登輝)下、台北の圓山飯店で「党外」(国民党以外の意味)人士が集結し、民進党の結党大会を開催している。
 本来ならば、国民党は“違法”な結党集会を取り締まる事ができた。だが、なぜが蔣経国総統は民進党の結党を“黙認”したのである。それを契機として、台湾は一気に「民主化」の道をたどった。
 そして、2000年(結党後14周年)、台湾で生まれた民進党が政権を担当する。だが、陳水扁政権は8年間、立法院では少数与党だったため法案が通らず、思うような政治を行うことができなかったのである。
 けれども、民進党結党後30周年の節目となる今年、再びチャンスが巡ってきた。今回は民進党が立法院でも多数なので、同党自らが望む政治ができるに違いない。

 翻って、現在、中国の習近平主席は、1986年当時の台湾とは、まるで逆の方向へ突き進んでいる。国内の「人権派弁護士」はもとより、同じ党内の人間(例:有名ブロガーの任志強)ですら言論の自由を認めず、“毛沢東型”の独裁政治を行おうとしている。
 また、習主席は、香港の「一国二制度」を無視して、自分が気に入らない人間(例:銅羅湾書店の関係者5人。国籍は外国籍か香港籍)を拉致し、中国大陸で裁こうとしている。これでは、世界の潮流から一人置き去りにされてしまうだろう。


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