一般教書演説
米国のバラク・オバマ大統領は、1月12日、彼にとって最後の一般教書演説を実施したが、善きにつけ悪しきにつけ歴代の大統領とは明らかに違う稀有な大統領の特色が出た演説であった。
その特徴が一番出ていたのは彼が提示した将来の課題の1つで、「世界の警察官になることなく、いかにして米国を安全にし、世界をリードするか」という問いかけだった。
彼は、「米国は世界の警察官ではない」と主張した初めての米国大統領であり、軍事力、特に地上戦力の抑制的使用にこだわり、グローバル覇権を追求しない稀有な米国大統領であった。
彼の課題に対する私の答えは、「世界の警察官になることなく、米国を安全にすることは難しくない。米国は今でも世界で一番安全な国家であるがさらに安全になる。なぜなら米国のみの安全に集中できるから。しかし、世界を米国単独でリードすることはできない、それは諦めるしかない」というものである。
米国はグローバルな覇権国ではなく、あくまでも地域覇権国なのである。米国単独で世界をリードできない時代になったことを自覚すべきである。
米国単独で世界をリードできない時代において、米国は台頭する中国にいかに対処するかが問われている。
シンガポールの故リー・クアンユー初代首相が主張したように「中国が世界的な均衡(バランス)の変化に与えた影響は非常に大きく、世界は新たな均衡を見出さなければいけない。中国は新たな大物の役者(big player)ではなくて、世界の歴史上最大の役者なのである」。
その意味で、私が一般教書演説で特に注目したのは、オバマ大統領の中国への言及であった。オバマ大統領は、日本については1度も言及しなかったが、中国については3回も言及した。
「すべての重要な国際問題において、世界各国の人々が解決を求めるのは北京でもモスクワでもなく我々だ」
「(国際情勢に触れた際に)過渡期にある中国経済から逆風が吹いている」
「(貿易ルールについて)環太平洋連携協定(TPP)はアジアにおける米国の指導力を増大させる。同地域のルールを作るのは中国ではなく米国だ」
台頭する中国を強く意識したと言えるだろう。特に「ルールを作るのは米国だ」という主張は、米国主導の秩序形成の宣言であり、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)や一帯一路構想にみられる中国による米国主導の秩序への挑戦を強く意識した発言であった。
中国に対して寛容な姿勢を示してきたオバマ大統領でさえ、任期残り1年になってやっと中国の挑戦に警戒感を抱くに至ったのであろう。
これに対して中国のチャイナデイリー・ドットコム(CHINADAILY.com)は、「一般教書演説における自己賛美は米国が抱える諸問題を無視した」*1と題する記事でオバマ大統領の演説を批判しているが、主な批判点は以下の通りである。
●中国に対する恐れ(fear)を強調することでTPP合意を売り込んでいるが、TPP合意国12か国の大部分にとって中国は最大の貿易相手国である。
●中国はTPPに加盟すべきではなく、地域的および世界的なルール作りに口を挟むべきではないとオバマ大統領は信じているようだが、このような考えは、世界が米国大統領に期待するリーダーシップではない。
●政治家が誰かを悪魔視することは、自らの自信の欠如を露呈することだ。
以上のような米中のさや当ては、既存の覇権国である米国と新たな覇権国を目指す中国の必然的な摩擦であり、2016年以降も継続するであろう。本稿においては非常に示唆に富む「トゥキュディデスの罠」をキーワードにして米中関係を解説したいと思う。
トゥキュディデスの罠
米国と中国の安全保障関係の文献を読んでいると、トゥキュディデスの罠という言葉にしばしば遭遇する。ワシントンのシンクタンクCSISのスコット・ケネディ研究員によると、2015年に戦略分析の専門家に最も使われた用語がトゥキュディデスの罠であった*2。
トゥキュディデスの罠とは、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスの仮説で、「新たな覇権国の台頭とそれに対する既存の覇権国の懸念(fear)が戦争を不可避にする」というものである。
トゥキュディデスは、紀元前5世紀における古代ギリシャの既存の覇権国であるスパルタと新たに台頭するアテネの緊張関係を観察し、アテネの台頭とそれに対するスパルタの懸念がペロポネソス戦争を引き起こしたと結論づけている。
「台頭する新覇権国と既存の覇権国との争い」の有名な例としては、第1次世界大戦直前において新たに台頭する大国ドイツと既存の覇権国英国との緊張関係が第1次世界大戦に至った史実がある。
トゥキュディデスの罠については、ドイツの研究所DIAS*3が2008年11月(オバマ氏が大統領選に勝利した直後)に「オバマ大統領はなぜトゥキュディデスを読むべきか?」*4を発表し注目された。DIASの慧眼には感心する。
トゥキュディデスの罠が特に話題になったのは、2015年9月末の米中首脳会談前後においてである。
習近平国家主席は、オバマ大統領との首脳会談の直前である9月22日、シアトルにおける演説*5において、「いわゆるトゥキュディデスの罠は世界に存在しない。しかし、大国が戦略的な判断を誤ると、自らがそのような罠を作りだすことがある」と発言し、トゥキュディデスの罠は不可避なものとして存在するのではなく、双方が正しく判断すれば回避できると主張した。
米ハーバード大学のグラハム・アリソン(Graham Allison)教授は、長年トゥキュディデスの罠に注目してきたが、彼の研究によると、過去500年の歴史の中で台頭する大国が既存の大国に挑戦する場合、16ケースの中で12ケースで戦争になったと結論づけている*6。
アリソン教授は、「米国と中国がトゥキュディデスの罠を回避できるか否か?」が、現代の世界秩序を考える際の焦点であると強調している。
そして、「16ケースの中で4ケースは戦争になっていない。戦争は、回避できないわけではないが、トゥキュディデスの罠から逃れるには大変な努力が必要である。歴史が示す事実は、新たに台頭する覇権国と既存の覇権国との間の戦争は生起する確率が高い。米中間の戦争は現時点で認識するよりも蓋然性が高い」と警告している。
16のケースは下図「トゥキュディデスの罠ケース・スタディ」の通りであるが、日本に関係するのは3ケースもあり、日清戦争・日露戦争に至った日本と清国および日本とロシアのケース、先の大戦に至った日本と米国のケース、冷戦間の日本とソ連のケースである。
現在のトゥキュディデスの罠は、米国と中国の関係に焦点が当てられているが、現在の日本と中国の間においても「トゥキュディデスの罠」的なリスクがあることを指摘したい。
現在は中国が世界第2の経済大国であり日本が世界第3の経済大国であるが、数年前まで日本が世界第2の経済大国であった。既存の経済大国日本と新たに台頭する大国中国の関係は、「トゥキュディデスの罠」的なリスクがあると考える。
さらに言えば、1970年代から80年代における日本と米国の関係は経済を中心として、「トゥキュディデスの罠」的なリスクがあったと考える。
米ハーバード大学エズラ・ヴォーゲル元教授の「ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One)」が象徴的だが、当時の米国は日本の目覚ましい経済発展に対し、米国が日本に凌駕されるのではないかという懸念があった。
その懸念ゆえに日米経済戦争という表現があったし、米国の対日開放要求は非常に厳しいものであった。当然ながら当時も日米同盟は存在していたし、実際の戦争になることを予測する者は皆無であったが、既存の大国と新たに台頭する大国の緊張関係という観点では「トゥキュディデスの罠」的な要素があったと表現をしてもいいだろう。
米国関係のケースの背景には、多くの米国の専門家特にシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授が指摘するように、「覇権国になった米国は、ライバル大国の出現を絶対許しておらず、米国は世界唯一の地域覇権国という地位を決して譲ろうとしていない」*7という米国の覇権戦略が存在するのである。
また、ミアシャイマー教授は、「大国政治の悲劇」の中で「中国の台頭は平和的なものにはならないし、新興覇権国の中国は必然的に覇権国である米国と対立する」*8と主張している。
そして、「米国は中国封じ込めのために多大の努力をするだろうし、中国のアジア支配を不可能にするためには何でもするであろう」とまで書いている。そして、共産党一党独裁の中国もまた習近平体制の下で強圧的に台頭している。以上を勘案すると米国と中国の対立がエスカレーする可能性は高いと思料する。
アリソン教授の研究は、16のケースの中でなぜ12のケースで戦争になり、なぜ4ケースで戦争を回避できたのか、その教訓を現在の米国と中国の対立に当てはめると戦争が回避できるのかなどが次の研究課題になる。
図:トゥキュディデスの罠ケース・スタディ
トゥキュディデスの罠をいかに回避するか?
米国および中国がトゥキュディデスの罠に陥り戦争状態になることを回避することは非常に重要だが、問題はいかに回避するかである。アリソン教授の研究は進行中で、私が納得いく解決策までは提示していない。
リベラリズムの立場で、中国に対する関与政策を継続し、中国をして米国と同様の価値観を持つ民主主義国家にし、国際法などを遵守する国家に導く、そしてグローバル化する経済の相互依存関係などによりトゥキュディデスの罠を回避すると考える人たちも存在するであろう。
しかし、トゥキュディデスの罠が提示する史実は、リベラリストが考える以上に厳しい現実を提示している。特に共産党一党独裁体制の習近平政権の強圧的な対外姿勢と冷戦終結後オバマ大統領以外の米国大統領が追求してきた「ライバル大国の出現を許さない」覇権主義が衝突する可能性は高い。
また、米中が衝突したとしても紛争のエスカレーション(以下に示す3つの類型はRAND研究所の報告書*9による)を抑制することも可能であろう。
戦闘機同士や艦船同士の「偶発的なエスカレーション(accidental escalation)」を予防するための処置を講じることも必要だし、相手国の意図を誤判断する「不注意なエスカレーション(inadvertent escalation)」を防ぐために常に接触を維持し意思の疎通を図ることも必要だし、「意図的なエスカレーション(deliberate escalation)」を抑止するために勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の努力を継続することも大切だ。
しかし、この分野(古参の覇権国と新たな覇権国の衝突)に関する専門家であるシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授とその主著「大国政治の悲劇」*10を参考にするのが私には一番手っ取り早い。
ミアシャイマー教授によると、国家が生き残るための戦略は、戦争、ブラックメール(恐喝:軍事力の行使ではなく、軍事力の脅威を活用)、バランシング(直接均衡)とバックパッシング(責任転嫁)、宥和政策、バンドワゴニング(追従政策)などが理論的には考えられる。
まず、戦争は最後の最後の手段であり、これを除外する。宥和政策、バンドワゴニング(追従政策)については、米国や中国の様な大国が採用すべき戦略ではなく、大国の庇護がない小国が採用する弱者の戦略であるために除外する。
ブラックメール、バランシング、バックパッシングが残る。ブラックメールは、中国が南シナ海の弱小国に対して軍事力の脅威を背景として使っている手段である。大国同士では使用に危険を伴うが、軍事力の脅威を抑止力として活用する場合もあろう。最後に残るのは対象国の侵略抑止において有効なバランシング、バックパッシングである。
ミアシャイマー教授による米国の立場からの対処案
ミアシャイマー教授は、「大国政治の悲劇」の第10章「中国は平和的に台頭できるか?」において米中関連のバランシング、バックパッシングについて詳述している。まずバランシングには以下の3つの方法があり、新たに台頭する大国抑止の基本である。
●越えてはいけない線を明確に引き、侵略者にその線を超えないように外交チャネルを通じ警告する。
●脅威を受けた側の国々がまとまって防御的な同盟を結成し、相手を封じ込めることである。例えば、中国には米国主導のバランシング連合(balancing coalition)が有力であり、米国を中心として米国の同盟国(日本、オーストラリア、韓国、フィリピン、タイ)と友好国(インドやASEANなど)で連合を形成し中国の地域覇権を抑止する案である。これは中国の封じ込め(containment)であり(注:オバマ大統領は「中国の封じ込めはできないし、適切ではない」と言っている)、ミアシャイマー教授によると「台頭する中国に対処する最適な戦略は封じ込めである」ということになる。
●脅威を受けた国が国防費を増大させるなどの自助努力を行うことにより侵略を抑止する。
次にバックパッシングだが、侵略的な国の抑止を他国にバックパッシング(責任転嫁)することである。例えば、アジアにおいて米国が日本に中国の抑止をやらせる。責任転嫁された日本はたまったものではないので、反対に米国をアジアに引き込み米国に中国の抑止をバックパッシングするなどが例である。
ジョン・グレィサー(John Glaser)による中国の立場からの対処案
中国の視点で考察されたトゥキュディデスの罠を回避する論考を紹介したい。ナショナル・インタレスト(National Interest)のホームページに掲載されたジョン・グレィサー(John Glaser)の論考*11である。
正月をはさみ、米中戦争を如何に避けるかについてジョン・グレィサー(John Glaser) とグレィサーに反対するハリー・カジアニス(Harry Kazianis)*12がナショナル・インタレストのホームページ上で論争を展開した。
グレィサー論文は、終始一貫して中国寄りの立場をとっていて、露骨に米軍をアジアから排除したい中国の意向を代弁している。米国人によるこの種の主張がナショナル・インタレストに掲載されていること自体に中国の影響力の大きさを感じる。
グレィサーは、「米国が中国の裏庭(東・南シナ海など)で覇権国になると主張する限り、中国は米国に脅威を与える。もし我々が卓越戦略を放棄すると、米中衝突のリスクは減少する。もし我々が中国の台頭を封じ込めようとすると、破滅の予言は的中することになるであろう」と完全に中国の立場を代弁した主張をしている。
そして、「現在の米国の中国に対するアプローチは、「封じ込め」であり、それは次の3つの施策に表れている」とし、その解消を提案している。
●米国のアジア太平洋への戦略的重心移動の支点となっている、米国と日本、韓国、オーストラリア、フィリピン、タイとの同盟関係の維持強化
●アジア太平洋における米国の軍事的プレゼンスを増大させること
●アジア太平洋における米国の経済的な関与(例えばTPP)は中国を軽んじ、除外することによりさらに統合すること
この3つの施策は米国にとって対中戦略のカギであり、それをすべて解消しなさいと主張しているのである。
さらに、「封じ込めは問題である。ワシントンの東アジアでの支配を維持しようという決意は、強い安全保障上のジレンマを引き起こすことになる。その理由を理解するためには中国の戦略的なレンズを通して見なければいけない。米国は、中国の政治的影響力を削減し、中国の国益を害することを追求する修正主義者(revisionist)である」とまで主張している。
グレィサーの「東シナ海や南シナ海を中国の裏庭」という主張は、極めて傲慢な主張であり、中国と領土問題を抱える周辺諸国(日本を含む)にとっては絶対に認められない主張である。
また、「米国が中国の裏庭で支配的な大国(dominant power)になるという政策は米国の安全にほとんど寄与しない」と主張するが、航行の自由、SLOC(sea lines of communication=有事の際に防衛すべき海上交通路)防衛、自由貿易の擁護という米国の重要な国益に合致するし、米国の同盟国や友好国の安全保障にとって極めて重要な役割を果たすのである。
グレィサーのような若い研究者がトゥキュディデスの罠をテーマとして、完全に中国寄りの論考を有名なナショナル・インタレストに投稿し、それが採用されることについて中国の宣伝戦の威力を感じざるを得ない。
結言
以上の様に議論を展開していくと米中を巡るトゥキュディデスの罠の回避は一筋縄ではいかない。
中国に寛容であったオバマ大統領の時代には中国は思いのままにその国力を増大させることができたであろうが、次期米国大統領が誰になるにしろ対中政策はより厳しいものになるであろう。
そして、その政策はライバルである中国の強大化を許さないものになると予想する。こう考えると、トゥキュディデスの罠の回避は人類永遠のテーマなのかもしれない。
*1=“Self-glorification in State of Union address ignored US’ problems”
*2= CSIS、“2016 GLOBAL FORECAST”に収められた“Economic Consequences of China’s Slowdown”
*3=ドイツのデュッセルドルフ外交安全保障研究所
*4=シュテファン・ハイド(Stefan Haid)、“Why President Obama Should Read Thucydides”
*5= Xinhua 2015-09-24、“Full Text of Xi Jinping's Speech on China-U.S. Relations in Seattle”
*6=Graham Allison 、“The Thucydides Trap: Are the U.S. and China Headed for War?”、 Harvard - Belfer Center for Science and International Affairs
*7=ジョン・J・ミアシャイマー、「大国政治の悲劇」、P509
*8=ジョン・J・ミアシャイマー、「大国政治の悲劇」、P509
*9=Forrest E. Morgan等、“Dangerous Thresholds: Managing Escalation in the 21st Century”
*10=John J Mearsheimer、「大国政治の悲劇」、奥山真司訳
*11=John Glaser(ジョージ・メイソン大学で国際安全保障を専攻)、“The Ugly Truth About Avoiding War With China”、“Avoiding War With China: Revisited”
*12=Harry Kazianis、“Unthinkable: If America Walked Away from Asia”
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