新たなワシントン体制で中国の海洋覇権を挫く
―日・米・英・仏・印の海洋国家団結―

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会長・政治評論家 屋山太郎

 近代日本の外交路線を大きく変えたのは1922年のワシントン会議ではなかったか。 それまでの日本は1900年に北京で起こった義和団の乱を鎮圧し、列国の居留民を救出した。日本軍の軍規の厳しさと強さは先進各国の称賛を得た。01年北京議定書で清国は列国に莫大な賠償金を払って一件落着のはずだった。ところがロシアは10数万人の軍隊を満州にとどめ、露清密約を結んで、さらに南下し満州を軍事占領した。その勢いに押された韓国がロシアになびきそうになった。そこで日本はロシアに満州を自由にさせる代わりに、韓国から手を引かせる満韓交換を提唱した。これと合わせて桂太郎首相・小村寿太郎外相らはイギリスとの日英同盟を模索し、ロシアの軍事攻撃に備える案も進めた。
 当時英国はバルカン半島や東アジアでロシアと対立していた。英国は日本がロシアと談合して協力関係になることを懸念した。日清戦争で勝利を収めた日本なら同盟していいとの判断で1902年、日英同盟協約を締結した。この同盟があったからこそ日本はロシアに勝てた。
 当時の地図を見るとロシアの陣地は大連、威海衛と、遼東半島全域に広がっている。ロシアを交えた列強の話し合いでは、ここまでロシアの占有を認めたわけではない。勿論韓国への南下もだ。そこで日本は満州から手を引く代わりにロシアは韓国から手を引けという交渉を行ったが、日ロ交渉は完全に行き詰まった。
 日本は04年に至って対露開戦に踏み切る。結果は日本側の目ざましい勝利だった。いいかえれば、日本と英国という海洋国家が海洋を主戦場としたから勝てたということだろう。海軍の強さは海洋覇権の強さに比例する。ここで、日本の海洋覇権の膨張を恐れたのはアメリカだ。ハーディング大統領が列強をワシントンに召集して新しい国際秩序を取り決めようということになった。1921年12月には米、英、仏、日の4ヵ国で太平洋の安全を取り仕切ることになり、4ヵ国条約が結ばれた。当然、日英同盟は打ち切られた。
 翌年にはワシントン海軍軍縮条約が結ばれ主力艦船を1艘3万5千トンと決め、各国の海軍力を米5、英5、日3、仏、伊が各1.67と決められた。米国と英国は兄弟のような関係だから海軍力では米英10対日3である。アメリカの太平洋の覇権は安泰になった。
 太平洋戦争で日本が惨敗したのは海洋国家の海軍が全滅したことに尽きる。今中国が「2049」を揚げて太平洋の覇権を狙っている。中国が海洋覇権を握れば、世界を握る。
 安倍首相は中国の海洋進出を抑えるため「開かれたインド太平洋構想」を打ち出した。端的に言えば中国押さえ込みである。日米は同一の軍事目的を持っているが、これに仏、英、印が賛同し加わる意志を示している。新たなワシントン体制の誕生である。香港問題はこの構想の成否を占う。
(令和元年9月18日付静岡新聞『論壇』より転載)