中曽根康弘大勲位が亡くなった。101歳と言えば大往生だが、私にはまだまだ惜しい人だった。首相在任5年間とそれに先立つ行管庁長官(現総務省)時代から付き合って戴いた。中曽根氏の偉い所は、外交、内政両面で主軸を決めると軸をぶらさず、貫き通したところだ。こうして外交も内政も成功した。
レーガン米大統領との間にロン・ヤス関係を築いて、おかしくなっていた日米関係を構築し直した。前任の鈴木善幸首相は日米が仲良くしすぎると中ソに妬(ねた)まれるという考え方であった。自民党には今でもそう考える人がいるが、時は米ソ冷戦時代である。米ソがそれぞれの陣営を固めてがっちり組み合っている状態で、中曽根氏の選択は100%米国に寄り添うことだった。サッチャー英首相に「ソ連と取引するときはビタ一文負けてはダメですよ」と気合を入れた話もある。西側全体が一体となって中距離核を配備した結果、ゴルバチョフ氏が折れてきた。米ソ冷戦は西側完勝に終わったのである。
目下は米中戦争の真最中である。米ソ対立時代よりも厳しく、米側には中国より劣勢な分野もある。西側のあらゆる科学技術の成果や製作術が盗まれた。安倍内閣は米国と共に劣勢を挽回する立場に立たされている。日本の取るべき道は、自由・民主主義国の側に立つ米国と共に世界に警鐘を鳴らし、勢力を挽回することでなければならない。こともあろうに習近平主席を国賓として招いて天皇と会見させるとはどういうことか。習氏が日本と同じ側に立った味方だと世界を錯覚させることになる。中曽根外交の原点を学ぶべきだ。
鈴木内閣では行管庁長官に任じられた。当時の行管は大物が時間をつぶす役所とみられていたが、中曽根氏は次の総理大臣を射程に入れて大仕事を仕掛けた。それが三公社五現業の合理化ないし民営化である。中曽根人事がすごいと思ったのは改革を取り仕切る第二次臨時行政改革調査会の会長に土光敏夫氏を担ぎ出したことである。
土光氏は当時経団連の会長をしており、その質素な生活に庶民は敬意を払っていた。“メザシの土光さん”こそが、国民に倹約を説く資格があると中曽根氏は判断した。
私もその調査会に出向し、国鉄、電々改革のチームに加わった。当時の国鉄は動労、国労という2つの組合が、社会党や共産党と組んで自由にストを打っていた。三木内閣の時には 8日間連続で国鉄を止めたことがある。
国鉄の赤字は年に2兆円、借金は40兆円以上もあったろうか。民営に移行するに当たって、国鉄の改革派が動労と話をつけて、全員雇用をする代わりに「ストはやらない」密約を取り付けた。ストをできるのは動労でこれが抜けると社、共勢力の実力は消滅する。猪突猛進が怖いのはイノシシに牙があるからだ。そのキバが無くなったらただの豚だ。JRの借金もあらかた片付いた。一大野党の社会党は無力化し、昭和政治は幕を閉じた。
(令和元年12月4日付静岡新聞『論壇』より転載)