今回の日中首脳会談では日中関係の「新時代」とか「新段階」という言葉が両首脳から語られた。だが現実をみれば、日本と中国のいまの関係に「新しい」と呼べる要素はない。この「新」という言葉を単にこれからの希望目標としてみるならまだしも、両国関係がすでに新時代に入ったなどと断ずるのは幻想に近いと言えよう。
安倍晋三首相と習近平国家主席による日中首脳会談は12月23日、北京で開かれた。両国政府の発表によると、この会談では習主席が「新時代にふさわしい中日関係を構築し、新しい未来を切り開いていく」と語った。安倍首相も「日中関係を新たな段階に次なる高みに引き上げる」と述べたという。
この両首脳の発言で顕著なのは日中関係がいまや「新しい」時代や段階にあるという表現だった。その表現には日中関係をこれから新しい段階に引き上げていくという希望だけではなく、その関係がいまでもすでに新時代に入ったとする現状認識がにじんでいた。
だが現在の日中関係が従来と変わった点は政策面ではなにもないといえる。両国の首脳が顔を合わせ、語りあうようになっただけなのである。とくに中国側の日本に対する態度は豹変した。だが日本に対する政策はなにも変わっていない。だから日中関係は決して新時代ではないのである。
安倍首相は今回の首脳会談で習近平主席に尖閣諸島への中国艦艇の侵入や、中国領内での日本人の逮捕について提起したという。東シナ海での中国の一方的なガス田開発についても抗議に近い言及をしたともいう。さらに安倍首相は香港やウイグルでの中国当局の人権弾圧についても批判的に提起したとされる。
日本側が中国当局のこうした不当、不正な動きを首脳レベルで提起することには意味があるだろう。なにしろ首脳同士では初めてのこの種の批判的な提起だからだ。だがその一方、この一連の案件は中国側の不当な言動として、すでに長い期間、国際的にも、日本の国内でも、よく知られてきた案件である。いくら首脳レベルでの表明とはいえ、「なにをいまさら」とか「遅きに失する」という感じが否めない。要するにその諸問題自体も、その問題への言及も、なんの新しい要素はないのである。
さらに重要なのは今回の安倍首相の問題提起に対して習主席からはなんの前向きな反応もなかったことである。日本側が抗議しても、その抗議に応じて、現状を変えるという態度は皆無なのだ。日本に対する年来の敵性のある一連の政策はなにも変えてはいないのである。
その政策を改めて具体的にあげてみると、まず尖閣諸島への軍事的な侵入、そして軍事手段を使ってでも尖閣諸島を奪取するという意図の表明、東シナ海の日本側の排他的経済水域での
一方的なガス田開発作業、日本人の学者やビジネスマンの不透明な逮捕、拘束、さらには日本企業への差別的な扱い、年来の中国国民への反日教育などである。中国が日本の安全保障政策に反対し、日米同盟自体にもその根幹で反発していることも年来、変わりはない。日本の首相が戦争で犠牲になった同胞の霊を悼むために靖国神社に参拝することにも露骨な抗議をぶつける中国の反日姿勢にも変化はない。
では何がいまのような日中首脳の顔合わせを実現させたかと言えば、ひとえに中国側の表面での対日姿勢の変化である。日本への政策は変えないまま、表面での接触だけを変えてきたのだ。
その理由はきわめて明白である。アメリカから全面攻勢を受け、日本をいくらかでも自陣営に引きつけて、対米闘争を有利にしようという計算である。日米を離反させようという企図でもある。だから中国のいまの対日姿勢は表面だけの微笑外交、みせかけのオリーブの枝なのだ。
いまの中国共産党政権は国際的にも人権弾圧をかつてないほど強く、広く非難されるようになった。中国国内での民主主義志向の国民への弾圧、チベットやウイグルでの少数民族の弾圧、香港での組織的な住民の人権抑圧など、その非道な実態がアメリカなどを通じて、全世界に詳しく伝えられるようになった。
その諸悪の最高責任者は中国共産党最高首脳の習近平氏である。その習主席を国賓として招くという日本政府の動きが国際的にどれほど醜悪に映るか、日本国民としても真剣に考えるべきだろう。