30年余年間、日本や韓国の大学で教え、3年前に定年となった。良い仕事に恵まれたと思うが、二つの国の学界やメディアが、戦時期の日本の加害史や暴力史に格別な関心を寄せる態度には強い違和感を覚えた。過ぎ去った過去に関心があるというなら、なぜ、現在進行形の中国や北朝鮮の巨大な人権犯罪や人道犯罪には無関心なのか。
この偏向はしかし、日韓に特有のものとはいえないようである。似たような状況はアメリカにもあって、共産主義の巨大な残虐行為よりも、ナチズムやホロコーストの犯罪に関心を寄せるのが学界やメディアの流行であり、アンチ反共主義者には知的で良心的というイメージがある。東西冷戦の一方の雄だというのに、この国でも反共主義は嫌われ者なのである。そしてこのアメリカの偏向こそが日韓の偏向に正当性の根拠を与え、またそれは日本批判のプロパガンダを世界に発信する媒介になってきたのである。
ところで、アメリカでの反共というと、70年代、UCLAのキャンパスで会ったある年長の韓国人留学生のことを思い出す。周囲のものから「ミスター方(バン)」と呼ばれていたこの中国史専攻の学生は、北朝鮮出身で、敬虔なクリスチャンであると同時に、飽くなき反共主義者で、人を見ると、すぐ反共演説を始める癖があった。私に向かっても「あなたは日本で暮らしていたから共産主義の恐さを知らないに違いない」とかいって、説教を始めようとするから、私は彼を避けた。アナクロな人間という印象もあった。
そんなアナクロ人間にやがて自分もなるとは知らなかったが、1981年から14年間の韓国での生活で「共産主義の恐さ」を知ることができたのは幸いだった。韓国で暮らしていれば、北朝鮮がこの国を転覆するためにさまざまな策動をくり返してきたことがよく分かる。在日だって、北朝鮮のその策動のためにずいぶん利用されてきたではないか。
とはいえ、私が共産主義の犯罪性に気がつき始めたころの韓国は、共産主義に対する幻想がいつになく高まった時期であり、あれよという間に、この国は往年の「反共国家」をやめたかと思うと、以前にも増して「反日国家」になってしまったのだから気分は妙である。「反共」が「反日」との間に維持していた緊張関係が崩れると、反日が活性化するのである。
反日が私のような人間にとって愉快な体験であるはずはない。しかし、反日が不愉快だからといって、韓国が丸ごと嫌いになるというほど愚かでなかったのは幸いだった。韓国で私は家族を得たのであり、韓国人との交流を通して、その人懐っこさに気がつき、また自然の魅力に触れることもできた。今思うと、韓国での14年間は自分の人生のなかで一番、愉快な時期であったし、不愉快な反日だって、イデオロギーと社会の関係とか社会の変動をいうものを実感するまたとない機会であった。
ただし、反日といっても、年中行事的な反日もあれば、即興的な反日もある。その入り口も、歴史問題、教科書、靖国、竹島、慰安婦と多様であり、多分その点で、私の反日経験は日本人のそれとは少しずれていたのかもしれない。私にとって重要だったのは在日を媒介にする反日キャンペーンの体験であり、在日コリアンの処遇問題とか指紋押捺撤廃運動、外国人参政権運動というように、あのころはその種の反日キャンペーンがよくあった。
こんな体験である。私の周囲にいる人間は私が在日であることを知っているが、私を不遇だと考えているような人間はまずいない。ところがこの種の反日キャンペーンが始まると、メディアがある日、突然在日にたいする憂慮の念を表明し始めるのである。これほど絵に描いたような偽善ぶりや機会主義に自分の人生で会ったことはない。しかも、それが80年代から90年代にかけて三度もくり返されたのだから、控えめにいって、反日に敬意を表するのは難しい。慰安婦の問題だってそうだ。朝鮮研究者の田中明氏はかつて韓国紙(『朝鮮日報』)の要請に応えて、次のような文を寄稿したという。
「〝妓生観光業〟が成立するくらい人肉市場が盛んな社会で、いったいどれだけの韓国人が、彼女らに同情の念をもってきたろうか。だが、いまの韓国のマスコミには、元慰安婦への同情者で溢れ返っている。愛や共生の意識など向けたこともない人たちを、こういうふうに利用するのは、便宜主義というものではないだろうか」(『韓国政治を透視する』亜紀書房、1992年)
この文(抜粋)は結局掲載されなかったというが、忘れ難い文である。私はこういう反日に触れて、いつの日かそれを批判する本を書かねばと思った。在日でも慰安婦でも、日本を撃つためにはなんでも利用するという韓国メディアの態度は許せないと思ったのである。しかし初めての単著を刊行したのは92年のことで、韓国に来て11年目のことだった。
それからしばらくして、私は職場を日本に移し、3年前には定年を迎えたが、このごろ気になるのは嫌韓派の韓国論者たちである。在日でも慰安婦でも、日本を撃つためならなんでも利用するという韓国の反日メディアを私は許せないと思ったが、「夕刊フジ」や室谷克実の本を読んで、同じことを考える韓国人はいないだろうか。
もし自分が違う環境に育っていたら、違うものの見方をする人間になっていたに違いない。日韓の問題であれ、日米の問題であれ、男と女の問題であれ、私たちに必要なのはそんな認識であり、それがなかったら、こんな時代にどのようにして正気を保つことができるのだろうか。